家康は銀座を設け、さらに朱印船貿易など着々と地固めを始めました。伊達や前田、特に伊達政宗に隠密を放ち、千代(仙台)の城の様子を探らせてにらみを利かせます。所領も増え、1万石以上の家臣も増えたことから、最早天下人と呼ばれるにふさわしい存在となっていました。さらに江戸に拠点を移し、江戸を国政の要とする一方で、大名たちの江戸屋敷や、二条城の建設も考えていました。しかし大坂方には何の断りもなく、とりわけ二条城と伏見城をどのように区別するのかもはっきりしていませんでした。これに対して家康は、二条城は儀礼の場であると答えますが、淀殿にしてみれば、自分たちの存在が脅かされることに他なりません。またこの前に、側室のお万が懐妊します。そして秀忠のお手付きとなり、大久保忠隣の屋敷に預けられていた志乃もまた、臨月が近くなっていました。そんな志乃に秀忠はこっそりと会いに行きます。
しかし屋敷に戻った秀忠をお江が待っていて、秀忠はしどろもどろの言い訳をします。しかもその志乃が産んだ子は男児で、長丸と名付けられました。複雑な思いのお江ですが、長丸の養育に専念するとしおらしいことを言います。しかし一方で志乃の存在を邪魔に思い、京に帰すように言います。秀忠は父家康から、志乃には御殿を与えるように言われていただけに、志乃に詰め寄られて困惑します。お江の鼻っ柱の強さは、大坂の姉(淀殿)にそっくりじゃと家康は言います。その家康と秀忠は、慶長7(1602)年は年賀のために上洛することはありませんでした。またこの時、関ヶ原で寝返って東軍についた小早川秀秋は、東西いずれもの大名からも相手にされず孤立を深めます。またこの時井伊直政は、関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化して、歩くのも不自由になっていました。ほどなくして直政は世を去ります。
直政は、島津義久への赦免を遺言していました。これは、やはり島津から負傷させられた娘婿の松平忠吉も同じでした。家康は井伊家に佐和山城を取り壊し、新しく城(彦根城)を作るように命じます。そして家康は母の於大の方を連れて上洛し、花見を楽しみます。その時、お万が男児を産んだとの知らせが入ります。長福丸と名付けられたこの子は、後の紀州徳川家の祖である徳川頼宜となります。さらに家康は今後のことをにらみ、天下人としてどのような官職であるべきか、金地院崇伝と天海僧正の意見を聞き、関白ではなく征夷大将軍がふさわしいということで、公家に根回しを始めます。そして、二条城の工事が諸国大名によって始まったこの年の8月、於大の方は伏見城で没します。享年75歳でした。
これには登場しませんが、徳川家康の水道工事と貨幣制度の設立に関しては、今年の正月時代劇『家康、江戸を建てる』でも触れられています。また朱印船貿易、大名の支配、さらに二条城を作るとなれば、家康が事実上の天下人であることは周知の事実でした。これに関しては、最早豊臣家の過去の栄光は霞まざるを得なかったといえるでしょう。一方で秀忠は、お江が志乃を側室として軽んじることに対し、淀殿も側室であると反論しますが、お江は淀殿は浅井長政の娘で、信長公の姪であると主張します。ここは姉妹の血ともいえます。ただしこの長丸は幼くして病死し、その後お江が産んだ男児が後の徳川家光となって、父秀忠の跡を継ぐことになります。しかし秀忠も嘘が下手というか、ことこの点に関しては、全く父親に似ていないのは事実です。
それから松平忠輝が相変わらず悪戯三昧で、掛軸の七福神の弁天像にヒゲを描いただの、侍女の着物に毛虫を投げ込んだだのといわれています。この時数えの11歳ですから、わからなくもないのですが、1万石とはいえ大名ではあったのです。しかも伊達政宗の娘五郎八とは、娘婿と言っているわけですから、結婚せずとも婚約中ではあったでしょう。(実際の結婚はこの4年後)実際この大河でも後はかなりぎくしゃくするのですが、それはまた後ほど。それから淀殿、こちらも家康との折り合いはかなり悪くなっています。家康の真意を年賀に上洛して来た際に訊こうと思いつつ、その年賀の挨拶には来なかったのですから、肩透かしを食わされたようなものです。しかし彼女の本当の試練はこの後、江戸幕府が開かれた時から本格化して行くことになります。今は忠臣であるはずの片桐且元も、その後は追放されてしまうわけですし。
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