第1回のいわば復習になります。この時代は中世的な武者同士の槍試合が影をひそめ、鉄砲→長柄→持ち槍の集団戦法となっていました。石田三成と対峙したのは黒田、細川、加藤嘉明そして田中吉政の連合子飼い連合軍、島津には井伊などの徳川家臣で、宇喜多秀家は福島正則と堂々渡り合っています。毛利は身動きが取れず、しかし何よりも家康を苛立たせたのは小早川秀秋でした。桃配山から下山した家康は、小早川陣に大砲を討つように命じます。そして「山が動き」、小早川は大谷吉継の陣目がけて襲い掛かり、家康を満足させます。吉継は小早川に「三年の内に祟りを成してくれん」と言い、自刃します。首はその場に埋めることになっていましたが、これは湯浅五郎が持ち去りました。また三成の家臣、蒲生郷舎は織田有楽斎と戦った後に討ち取られます。
そして小西行長の軍が敗走し、勝利を確信した家康は勝鬨を上げます。また石田三成の陣は、豊臣子飼いの連合軍に攻め込まれて大荒れとなり、三成は自刃しようとしますが家臣に止められます。その後わずかな手勢を連れた三成は戦場を抜け、毛利も逃亡しますが浅野幸長が追跡します。そして西軍の中で関ヶ原に残された島津義弘は、甥の豊久と共に、家康陣に攻撃を仕掛けるという捨て身の策に出ます。これによって井伊直政と松平忠吉を負傷させますが、豊久は戦死し、島津軍はあと一歩というところで家康に背中を向け、退却することになります。首実検を行った家康は、明日は山狩りだと言いつつ東軍の武将を呼び集め、労をねぎらった後まず大坂の人質を解放すると言い、さらに小早川秀秋の寝返りを評価し、寝返った諸将だけで佐和山城を攻めるように命じます。
ところで9月17日、まだ木曽の妻籠にいた秀忠軍は、関ヶ原の第一報を聞きます。なぜ戦を始めたのだと家康に不満げな秀忠ですが、物事には潮時があると本多正信がたしなめます。その頃大坂城では、奉行の増田長盛と前田玄以が、戦のことを秀頼と淀殿に報告していました。片桐且元は相変わらず、これは家臣同士の争いという姿勢を貫きます。長盛と玄以は、自分たちは家康を敵視していないと言いつつも、且元から弾劾状を送ったこと、淀殿から秀頼に出馬を要請しようとしたことを指摘されて返答に窮します。一方佐和山城は圧倒的に優位な小早川他の軍に攻め込まれ、三成の兄正澄は戦死、父継は自刃し、りんが介錯を行います。そしてそのりんも、火の中で家臣に首を討たせて果てます。燃え上がる城を、近くまで逃げて来た三成一行は呆然と見つめていました。
関ヶ原で東西相討ち、小早川他の裏切りもあって家康の東軍が勝利を収めます。ところで第1回の時にも書きましたが、この中で蒲生郷舎と織田有楽斎が戦うシーンが登場します。これは実は蒲生郷舎ではなく頼郷といわれています。また小早川秀秋陣への大砲も諸説あり、最初から裏切っていたという説もあります。ちなみに大谷吉継の「三年の内に」云々ですが、秀秋はこれからほどなくして世を去っています。しかし小早川秀秋といえば、私としては浅利陽介さんのイメージが強いです。後この秀秋に佐和山城を攻めるように家康が命じた時、「豆殻を以て豆を煎る」と揶揄したのは本多忠勝でした。お前たちは三成の城を本当に討てるかと試したようなものですが、秀秋や吉川広家にしてみれば屈辱的ではあったでしょう。
それから佐和山城では、三成の正室りんが敵の手にはかかりとうないと言い、炎の中で首を討たせます。以前細川玉の自刃シーンは必要かと書いたことがありますが、これとの対比のためでしょうか。ただお市の方と細川玉に限っては、何か戦国大河の定番化している感もあります。その意味で『軍師官兵衛』のだしの処刑や、この大河でのりんの自刃は新鮮に映りました。来年の『麒麟がくる』で、光秀の妻が坂本城で亡くなるのは描かれるのでしょうか。一方で、井伊直政を島津豊久が負傷させるのは、桜田門外の変で、有村次左衛門(有村俊斎=海江田信義の末弟)が井伊直弼の首級を上げるのを彷彿とさせます。この関ヶ原自体、後の幕末につながって行くものがあるにはありますが。この時の捨て奸(がまり)を使った島津の退き口も有名です。
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