慶長4(1599)年正月、五大老、とりわけ徳川家康と五奉行の衝突により、このため秀吉の葬儀の具体的なことも決まっていませんでした。大老の1人である前田利家は三成に、押すべきは押し引くべきは引くように諭します。最終的に五奉行は一同剃髪しますが、これには家康の横車もあったことを三成は淀殿に伝えたため、剃髪すべきは家康と淀殿は激怒します。また家康は誓紙血判を出すようにと利家は促し、この礼のため2月29日に家康を訪れます。余命いくばくもない利家は、すべてを家康に託すつもりでした。しかし三成たちは家康暗殺計画を企て、藤堂高虎の屋敷に襲撃を加えようとしますが、それを察した高虎は、徳川寄りの豊臣の大名たちに屋敷を警護させていました。これにより大坂登城を見送った家康でしたが、淀殿は面白くありません。
これに関して北政所は、その暗殺の首謀者も加賀屋敷にいたことを話し、誰から聞いたのか尋ねられて知らないふりをします。そして3月3日利家は亡くなり、三成は密かに伏見方面へ逃げて家康の屋敷に助けを求めます。七人衆と呼ばれる徳川寄りの大名たちと、徳川の家臣が、渡す渡さぬで入り口で押し問答となりますが、家康は窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たずと言って三成を匿います。家康に会った三成は、内府殿への失礼な態度は豊臣家の繁栄を願うてのことと、あたかも徳川が謀反を企むが如きことを言い、ついには腹を切るとまで言い、家康も脇差を渡します。しかし片桐且元が淀殿に忠告したことにより、北政所が文を送って三成は切腹を免れ、閏3月10日には奉行を辞して佐和山へ向かいます。三成には結城秀康も同行していました。
家康は大坂に出仕するように催促を受けていましたが、自分は病だと固辞します。秀忠は父に、三成を許した理由を尋ね、家康は、戦乱の世は敵が味方になり、味方が敵になるものだと答えたうえで、今は敵の敵を味方につけるのだと秀忠に言います。その頃お江は懐妊します。彼女はまだ嫡男を産んでおらず、そのことを遠回しに非難されているように感じていました。一方家康の縁組工作は着々と進み、六男松平忠輝と伊達政宗の娘が結婚します。3月13日家康は伏見城に入り、そこで生活を始めて淀殿や他の大老を怒らせます。そしてお江に子が生まれましたが、また女児でした。諸大名の伏見詣でが行われる中、家康は秀忠に、子は山ほど作れ、側室は若くて丈夫な、そして実家が口出しをせぬよう無名の女を選べと忠告します。
家康と五奉行の対立が表面化して行きます。しかも本来、五大老五奉行の中でも重石的存在だった前田利家が世を去ります。これにより、家康暗殺計画が密かに進行しますが、家康が滞在することになっていた屋敷の主、藤堂高虎が屋敷を警護させて事なきに至ります。この時警護に当たったのは、豊臣子飼いでしかも徳川に付いた加藤清正、黒田長政そして池田輝政でした。この3人に福島正則、細川忠興、浅野幸長と加藤嘉明を加えた7人が、利家亡き後石田三成を暗殺しようと企て、三成は伏見の徳川屋敷へ逃げることになります。ここで三成を殺すこともできた家康ですが、誓紙血判に反することであり、しかも、七人衆を焚きつけたと思われるのを避けるために、敢えてそのままにしていました。
この大河では、伏見城の治部少輔丸に籠るシーンはなく、以前からの通説をそのまま踏まえているようです。ともあれ三成は家康に匿われたものの、一方で家康を非難すると取られても仕方のないことを口にし、最終的に腹を切るとまで言います。北政所の文により事態は収拾されますが、三成は奉行を辞して佐和山城蟄居となります。後に家康が会津征伐に向かった隙に、再び戻って来ることになりますがそれはともかく。この時結城秀康も同行しますが、この人は秀忠の異母兄ながら元々秀吉の養子で、この時は結城氏の養子となっていました。この人物の生涯も興味深いものがありますが、大河の主人公にはちょっと弱いでしょうか。なお越前松平家の血筋は、この人物からつながっていて、幕末に松平春嶽を出しています。
家康はなぜ三成を助けたかを秀忠から訊かれ、戦国期の世渡りの仕方を教えます。桶狭間の合戦後に三河再興を目指した将兵は、一旦は自分を裏切った者であったと言い、敵の敵は味方だと教える家康ですが、つまりは三成を嫌う、豊臣子飼いの大名を手なずけるということでしょう。この秀忠は如何にも腹芸ができなさそうな感じですが、ここで家康が手を取るように教えるというのは、ちょっと甘すぎやしないかとも思えるのですが…。そしてお江の子がまた女児であったことから、家康は側室を持つように言い、実家がしゃしゃりでない無名の女を選べとまで言います。今だとこのセリフ、ちょっと微妙でしょうか。ちなみに秀忠に嫡男の竹千代、後の家光が生まれるのは関ヶ原の戦いが終わって4年後のことです。
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