池田屋事件を売り物にしていた第24回ですが、実際観たところ、これが正味1分間あるかないかでがっかりです。なにゆえここまで殺陣や戦闘シーンを嫌うのでしょうか。その理由を知りたいものです。本来幕末とくれば、戦闘シーン目白押しのはず、なのですが…。しかも宮部鼎蔵の階段からの落下(池田屋の描写でのお約束)なし、新選組に向かって「いずれ君たちの時代も終わる」と説くところもなし。何よりも、吉田稔麿は本来早い時間に斬られていたはずなのですが、一旦藩邸に行こうとしたという設定で、かなり後で斬られている始末。ついでながら、沖田総司の喀血もなし、まさにないないづくしの感がありました。
というよりも、本来10分ほどかけて描かれるべき池田屋事件を、1分そこそこで描く方が無理があるといわざるをえないのです。ちなみにこの大河では、あれだけ松陰を前面に出した割には、宮部と松陰の交流、特に奥羽への旅が描かれていませんでした。そして高杉晋作が、脱藩の罪で野山獄に入れられます。しかし「先生を慕うてようやく野山獄」の句はまだ披露されていません。何よりも不思議なのは、まず高須久子が現れ、次に文が手紙を持ってくることです。こういう場合、奥さんが一番最初に来るのではないかと思うのですが。身重の雅夫人が現れるのは、文が手紙を渡した後です。
なぜこうも文があちこちに出没するのかもよくわからないのですが、さらにわからないのが、小田村伊之助がトーマス・グラバーに会うという設定になっていることです。当たり前ですが、実際の小田村伊之助はこのようなことはしていません。(「仁先生」は会って、おまけに手術までしていますが)これで話が盛り上がるのならそれでもよしとするのですが、どうにも無理やり感が拭えません。ところで桂小五郎がやっと登場しましたが、これも申分程度です。本来高杉、久坂と同じくらいの登場回数があっていいはずなのですが。
しかも、久坂と文がよもやま話をする場面だけは相変わらず長いです。養子にしたもののなかなか懐いてくれない久米次郎と、ようやく親子3人水入らずの場面はまだわかりますが、こういう夫婦の会話的な部分に時間が割かれすぎです。池田屋を端折ってまで、こういうのを流すべきなのでしょうか。しかも久坂が「握り飯を握って、つつがのう暮らせるような…」などというのはどうにも苦笑物です。何とかして「お握り」出したいのでしょうが、如何にも話が小さすぎて、これが幕末の、そのうねりの中にある情景とはとても信じがたいのです。
これは、脚本家の方々には悪いのですが、どう見ても脚本担当の人選ミスの感があります。あと文が、武家育ちとは思えないほどすぐ泣く。そのため、物語がそこでリセットされている感があり、それもどこか流れが寸断されている一因でしょう。それと
参預会議 、これがまたあっけない終わり方でした。こういうのを丁寧に描かないというのも、脚本、ひいては制作サイドの未熟さが感じられます。どぶろっくの2人が出ていたのはここの場面ですが、率直な話、やはり殿様という感じではありませんね。
しかしここまで殺陣軽視だと、蛤御門の変がどの程度描かれるのか、ちょっと心配です。
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