第46回「家康動く」。秀吉の死により唐入りは中止され、長政ら諸将は帰国します。無論何の恩賞もなく、彼らと三成の間には確執が生まれます。さらに徳川家康が、加藤清正、福島正則そして長政に、小西行長が朝鮮での戦のことで3人を訴えることを伝えます。黒幕は三成だと誰もが思い、三成、行長そして宇喜多秀家らと、他の武将たちの間には大きな溝が出来て行きます。そして慶長3(1598)年、豊臣秀頼は母茶々と伏見城から大坂城へ移ります。秀頼の後見人は前田利家となり、髪を下ろしたおねは西の丸に住むことになります。長政は異議を唱えますが、諍いを起こしたくないとおねは言い、長政にも無用の争いを避けるよう戒めます。如水と共に天満の屋敷に戻った長政は娘のお菊に会い、熊之助の生まれ変わりのようだと言いますが、糸は不機嫌そうです。
糸は熊之助の件、男児を産めなかった件をひどく気に病んでいました。この時国内の政治は、五大老五奉行を中心に進んでいました。大老の一人でもある利家を立てる三成らは、家康を亡き者にしようと企んで刺客を放つも、家康は難を逃れます。実際家康は秀吉の遺言に背き、他の大名家と次々に縁組をしていました。中老の生駒親正が派遣されるも、のらりくらりとその場をかわす家康に、三成は敵対心を燃やします。一方で三成が天下人として立てようとした利家ですが、如水から諫言され、その後病没したため政治的バランスが崩れてしまいます。そして家康に付く武将たちもいました。長政もその一人ですが、如水は軽率な行動に出ないよう、後藤又兵衛に注意を与えます。結局彼らは大挙して行動に出、三成は密かに抜け出して伏見城の治部少丸に籠ります。
長政や清正、正則らは三成を出すよう迫りますが、家康はならば自分が相手をしようと言い、3人は引き下がらざるを得ませんでした。三成にはいずれ沙汰が下ることになりました。さらに長政は、妻の糸が絶えず自分を責めるようになり、お菊の泣き声にも耳を貸さないようになって困り果てます。そして家康は姪である栄を養女にし、いずれかの大名に嫁がせる魂胆でした。自分の許を訪れた如水に家康は、長政から聞いた黒田家の家訓、命の使い道に言及し、蟄居させられた三成の命も使いようがあると言うのを耳にします。如水は、家康が大乱を起こして天下取りを企んでいることを悟ります。三成方には付かないことを決めた如水ですが、自分は我が道を行くと善助、九郎衛門そして太兵衛に伝えます。それは天下を取ることを暗示していました。
まず朝鮮から戻った諸将と三成の対立、五大老五奉行、秀頼の大坂城入りと、秀吉没後のお馴染みの光景が展開されます。さらに三成と家康の対立がエスカレートして行きます。小西行長の訴えや家康が狙われたことなどなど、さらに家康が秀吉の遺言に従わないと言ったことも含まれていました。三成は前田利家を天下人に推そうとします。実際この時利家がもう少し長生きしていれば、形勢がいくらかは変わったかもしれません。しかし秀吉の死を待っていた家康に取って、その待ち続けた時間の長さに報いるかのように、好都合なことが次々に起こります。利家の死、秀頼の幼さは家康に取っては大きなメリットだったといえます。さらに多くの武将が三成を嫌っていたことも、無論追い風となって行きました。
この作品では治部少丸が登場します。伏見城のこの場所に籠ったというのは、この大河でも描かれていました。また三成襲撃の首謀者は細川忠興とされています。結局この件は家康が仲裁に出て、後に三成は居城である佐和山城に蟄居となります。蟄居にいぶかる如水に、家康は例の命の使い道を引用したのです。このことから、家康は戦をする気であると如水は悟ります。如水が自分で天下取りをすることをほのめかしたのは、長政は黙っていても家康に付くと踏んだからでしょう。家康は利家の死後に秀頼の後見人となり、会津攻めに向かいますが、結局これが関ヶ原へとつながる一連の戦役の幕開けとなります。そして会津中納言である上杉景勝と三成は、密かに連絡を取っていたともいわれています。
ところで長政ですが、糸の態度に困惑した表情を見せます。糸は自分を責めるあまり、娘の泣き声さえも無視するようになってしまいます。折も折、家康は姪の栄をどこかの家に嫁がせるつもりでした。無論秀吉の遺言を無視しての暴挙ではありますが、この時にこれをやっておいたからこそ、後々うまく行ったともいえます。また彼が大大名であったこともそれに拍車をかけたでしょう。小田原征伐後、ススキの生い茂る湿地帯であった江戸に転封された家康ですが、おかげで唐入りにも加わらずにすみ、広大な領地を持つ大名であったこともまた、この人物に取ってはプラス要因になったのです。後世の人間からすれば、どう見ても天下人は家康一択となるのですが、混乱状態にあった時代、誰が天下を掌握するのかは未知数でした。
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