まとめもこれが最後になります。まず『西郷どん』エピ関連でも散々書いていますが、やはり史実が描かれていないとか、西南戦争をもっと描けという人は多かったようです。しかしこの大河のコンセプトは、それよりも西郷隆盛の家族、人との出会いが重視されているわけですから、必然的にその部分の比重を大きくすることになるでしょう。しかもどのようなコンセプトであるかは、事前にこう書きますと発表されているわけです。無論西郷が主人公だからと言っても、スタッフによって、あるいは社会情勢によって大きく異なっても来ます。糸は吉之助の幼馴染ではないとか、男装するのはおかしいという指摘もあったようですが、これはそもそもがそういう物語ですし、それを言うなら『翔ぶが如く』の糸も男装してはいたのですが。
また放送開始前に、「翔ぶが如くファン、篤姫ファン、八重の桜ファンと原作者、脚本家アンチの批判が予想される」といったツイを見たこともあります。個人的に『翔ぶが如く』との比較、原作者や脚本家が好きでない人の意見は目にしたことがあります。しかし『篤姫』ファンの意見はあまり見たことがなく、『八重の桜』関連の意見を一番多く目にしたのは、何と言っても『武将ジャパン』でです-とはいえ、武者氏がこの大河の真のファンなのかは疑問ですが。その意味では、この大河は最初から、かなり逆風に立ち向かっていたのだなとも思います。「西郷大河」の模範的存在である『翔ぶが如く』とは、また違った西郷像を描こうとしたわけですから。しかしやはり、他の大河と同一に論じる、そして原作者や脚本家の好き嫌いで論じるというのは、如何なものかなと思います。以前、あまり好きでない作家の本が原作の大河がありましたが、それ自体は好きで観ていました。
ところで前出武者氏が、『西郷どん』総評(後編)で、明治維新とフランス革命を重ね合わせたのはとんでもない話と書いています。実際この両者はかなり違いがありますが、それに関してはこういう記事があります。
西郷どんが「革命家」? 大河に違和感を抱く理由
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20181022-OYT8T50018.html (YOMIURI ONLINE)
「 大河に違和感を抱く理由」というよりは、なぜ『西郷どん』では明治維新が革命とされたかという内容で、西郷や他の志士がナポレオンに傾倒したかといった理由も書かれ、本のPRも兼ねています。特にこの中で、川口雪篷が「革命」と書かれた旗を振っているところから、革命家という見方をされたようですが、そもそもこの「革命」、私は易姓革命の意味も多分にあるかと思っています。もしこの当時「レボリューション」の訳語としての革命という用語が存在し、それがこの意味で使われていたとすれば、それは記事中にあるように、吉田松陰が唱えた草莽崛起という意味も含まれていたでしょうし、ナポレオンが在野の人々を軍としてまとめ上げ、旧体制の軍に打ち勝ったことに共感したとも考えられます。
それから、糸の除幕式での言葉です。
「うちの旦那さぁはこげな人じゃなか」
このシーンは総集編では最後の方に登場し、西田敏行さんの含みを持たせた言葉で終わりました。なぜ彼女はこう言ったのか、やはり浴衣姿で犬を連れてなどいないということでしょうか。これはその後のシーンがヒントになりそうです。鈴木亮平さん演じる吉之助が、着物を片肌脱いで犬と猟をするシーンで、この総集編は幕を閉じます。つまりこの大河では、西郷がいわばラフな格好で犬を連れているわけです。それを考えると、やはり銅像と言うのは正装であるべきであり、なぜこのような姿の像を作ったのかと抗議した、そのように考えられるかもしれません。
今回は主人公が、当初はやけに叱られたり怒鳴られたり、果ては蹴られたりするシーンが登場しました。こういうシーンに、こんなの西郷じゃないと思った人もいるかもしれません。しかし下級武士出身で、若くて未熟者という設定であれば、こういうシーンも出て来てもおかしくはないわけです。むしろ『真田丸』の大坂の陣の最中とか、『おんな城主 直虎』で、次郎法師が直親の遺志を継ぐというところなどで、主人公が衆目の中で自分の心情を吐露するようなシーンがありましたが、ああいうのがなかったのは評価できました。こういうシーンも使い方によっては効果的ですが、どこか学園ドラマ的で垢抜けない印象もありますので。
この大河になぜ惹かれたのか、理由は様々です。しかしこれは、第47回の感想で引用した記事にありますが、やはり「スーパーヒーローでない」西郷隆盛に惹かれたというのが、一番大きな理由です。
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