『西郷どん』を観ていると百姓の辛さ、苦しさといったものがかなり描かれています。これは吉之助が下級役人で、庭方役の前は、農村に関連する役についていたこと、そして奄美大島に流されたことなどが挙げられます。特に龍家が、島代官の田中健之介から濡れ衣を着せられるところは、第2回でふきが借金の片に売られるエピを想像させます。実際薩摩は米があまり取れず、農村の人口が少なく、さらに奄美大島は年貢がすべて黒糖であり、しかも島の人間が砂糖を口にすることは許されませんでした。
最近ここまで農村の事情が登場する大河は、意外となかったように思います。『花燃ゆ』の杉家は自給自足生活でしたが、杉家は武家で、もちろん作物は年貢の対象とはなりません。昨年の『おんな城主 直虎』では百姓たちが出て来て、しかも城主自ら農作業をやってもいましたが、個人的に彼らの切実な様子があまり窺えませんでした。しいて言えば、山本學さんの甚兵衛にそれらしさが出ていました。特に瀬戸方久から綿花栽培を勧められた時ですが、素人が手がけて最初からあそこまでできないでしょうし、部分的に失敗するとか、思ったようにうまく行かない位の方が現実味があったでしょう。
あと、綿織物に刺繍をするシーンが尺を取っているのも、これじゃない感がありました。農作業のみならず、主人公がすることがすべて成功しないといけない(これは『江』や『花燃ゆ』とも共通しますが)という前提があったのかもしれませんが、それ自体かなり不自然に思えます。創作メインなのですから、百姓たちの苦労を入れようと思えば入れられたはずなのですが。閑話休題。サトウキビ搾汁機の不具合で、吉之助が鉄輪を提案するのは、恐らく斉彬の「集成館で農具も作る」が伏線になっていると思われます。無論、その集成館事業も幕府の通達で廃止せざるをえなくなっていました。
奄美大島でのシーンも、なかなか楽しめるものがあります。この大河は特に期待もせず、かといって悲観的にもなっていなかったのですが、ここまで受け入れられるとは実際思ってはいませんでした。むしろ昨年の森下さんが、主人公や時代設定もあるにせよ、もう少し人情の機微を描けたはずなのになぜそう見えなかったのか、その方が不思議でした。やはり森下さんは原作付きがいいのかなと思いましたし、制作統括にも責任ありだなとも思いました。また昨年のサブタイ、あれはやはりちょっとまずかったですね。「本能寺が変」なんてどうもいただけませんでした。
少し前の「大河と先入観」、あるいは他の大河関連投稿でも書いてはいますが、私は脚本家(または原作者)や出演者で大河を選ばず、事前の予想もしません。またこの人ならという脚本家もそういません。やはり自分の好きな原作者や脚本家であれば、面白くあってほしいという気持ちが先走りし、すべてを肯定しがちになるし、反対の場合は否定しがちになるのかなと思います。そのため似たような描写であっても、好きな脚本家の大河なら評価、嫌いな脚本家のであれば批判となりやすく、それがやはりダブスタ的な印象を与えがちになるというのもあります。むろん中には例外もありますが。
大河もそうですが、もう一つこのブログでよく書いているラグビーにも、実は同じことがいえます。これはラグビーというよりスポーツ全般でしょうが、ラグビー関連メディアの記事で、編集部やライターが受け入れやすい監督やコーチ、チームであれば、評価が高まる傾向があり、その逆はあまり評価されないという経験をしたことがあります。メディアの問題点については、「ラグビー代表と平尾氏番外-1999ワールドカップと メディア」の1と2でも触れていますが、これについてはまた改めて投稿したいと思います。
スポンサーサイト