慶喜が井伊邸で将軍になることを明言し、その旨を盛り込んだ詔を賜るものの、井伊の手下が工作を行い、将軍は慶福となります。その後家定は病死、その前に井伊直弼は大老となり、斉彬をはじめとする改革派大名に圧力をかけます。吉之助も気落ちしていたところを正助に励まされ、ついに馬揃えの名目で京に出兵し、新たに詔を賜って幕府に迫る計画を立てますが、吉之助がその準備に明け暮れている間に、斉彬が急死します。
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一橋慶喜が井伊直弼の前で将軍になることを明言し、吉之助と橋本左内は京へ向かった。将軍継承の詔を、近衛忠煕と月照に働きかけてもらうためだった。そして安政5(1858)年3月の孝明天皇からの詔には
「英傑・人望・年長の三件をそなえたもの」
という条件があり、年長とある以上慶喜であることはまず間違いなかった。そして薩摩では島津斉彬が異国と対等にということで軍事訓練に励み、また篤姫は家定と睦まじく暮らしていた。しかしその家定は、柿の絵を描いていた時に持病の脚気が悪化し、倒れてしまう。
この機会を直弼は利用した。筆と紙を病室に持ち込み、幕政を自分に任せる旨、そして次の将軍を慶福とする旨を一筆書いてもらう予定だったが、家定は柿の絵を描き始めた。しかし直弼は、あたかも家定が重大な決断をし、それを自分に委ねたがごとく、外の人物にも聞こえるように大声で返事をする。そして4月23日、直弼は大老に就任し、勅許なしで日米修好通商条約を締結することに踏み切る。しかし篤姫は、慶福就任は直弼が家定に無理をさせたのではと、家定の書状を持ってくるよう命じるが、直弼はそれを拒否した。
慶福の就任に本寿院は気をよくし、見舞いにも来ぬ慶喜とは大違いだと、篤姫に当てつけがましく言うのだった。またこの件は京の吉之助の耳にも届く。井伊の手下が関白である九条尚忠に接近し、「年長」の文字を消してしまったのである。吉之助はそれから駆けに駆け、ようやく薩摩に戻って来た。しかし斉彬は既に知らせを受け取っており、馬で狩場まで来ていた。吉之助はその前にひざまずき、少年時代に同じ場所で、斉彬について行くことを決心したのを思い出した。また斉彬も途中で百姓を目にし、民が豊かになることを夢見ていたが、それがついえたように感じた。
また井伊は、集成館も廃止するように命じていた。万事休すと思った斉彬は、吉之助の庭方役を解く。重い気持ちで帰宅した吉之助を、家族は温かく受け入れたが、役職を解かれたことに驚く。家は相変わらず貧しかった。その夜、なすすべもなく外を見ていた吉之助に、正助が話しかけてくる。万策尽きたと言う吉之助に、それはやっせんぼの言い訳だと言い、西郷吉之助はできるはずのないことをやってしまうと諭す。吉之助は郷中の子供たちを見、すっかり手垢にまみれたcangoxinaの文字の紙を見つめる。
吉之助は斉彬に直訴することにした。もはや庭方でもなく、面と向かってものを言える立場にはなかったが、無理を承知で鶴丸城へ行き、まず京で馬揃えをすることを提案する。さらにその後詔を賜り、それによって幕府に改革を迫るというやり方だった。この進言に、斉彬は背中を押されたように思い、京に戻ること、また薩摩と志を同じくする藩に、それを伝えることを命じる。斉彬はこういった。
「今からお前はわしになるのだ」
吉之助は仲間たちに後を任せ、京へ上って薩摩藩定宿の鍵屋に入る。
この鍵屋にお虎という、小太りでのんびりした女中がいた。ひそかに吉之助を思っているように見えた。ここで月照、左内と準備をする吉之助を訪ねて、有村俊斎が嘘をついて江戸の藩邸を飛び出してくる。吉之助はこの突然の来訪を喜び、準備にも気合が入った。そして薩摩では、斉彬が大砲や鉄砲を実射し、軍事教練に取り組んでいた。しかしこの教練中に斉彬は倒れ、その8日後に急逝してしまう。
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井伊直弼が家定に一言残すよう迫るシーンが、これまた『真田丸』の秀吉と家康を思い出させますが、それはさておき。段々と井伊にとって有利な情勢となり、ついにあの日米修好通商条約の締結に至ります。これに関しては一部勤王家が妨害を企てており、勅許なしで締結せざるをえず、しかもこの内容は不平等条約であり、さらにこれによって金が海外流出して、物価が高騰したことなど、マイナス面も結構あった条約でした。井伊直弼の不評はこういうところも原因でしょう。
それから徳川家定の病は脚気でしたが、当時はこの病気で落命する人もかなりいました。これは玄米でなく白米を常食するようになったこと、とりわけ江戸とその周辺でその習慣が出来上がった頃から、江戸わずらいとも呼ばれましたが、要はビタミンB不足です。またこれにより、伊東玄朴ら蘭方医が御医師として江戸城に上がるようになり、将軍やその家族の医療に、蘭方を広めて行くことになります。
吉之助が薩摩へ急遽帰郷した件ですが、実際には松平慶永の文を持ち帰っていたといわれています。その代わりといいますか、こちらでは京への出兵を促したのが吉之助となっています。しかし道中急ぎまくり、泥まみれで帰宅する辺り、如何にも殿のためならば命も要らぬの吉之助らしい、ある意味薩摩武士らしいともいえますー着物をあれだけしか持っていないのがどうも不思議ですが。しかし吉之助は江戸にいる時は、誠心誠意殿に仕えはするものの、その一方でドジを踏んだり、斉興の隠居先に押し掛けたり、本当に西郷てこうだったの?と思われるようなこともありましたが、京はむしろ吉之助本人が活躍できるのではないかとも思われます。お虎とどういう位置関係になるのかはともかく。
しかし井伊もなかなかの狸ではありますが、こうでもしないと大老という職には就けず、また宮中にも手を回せないということもあったでしょう。その割にこの人は、結果としては自分の首を絞めることになる、安政の大獄をやってしまうという不思議さもあります。要は徳川大事という思いの強さが、ある意味狂気に走らせたといえなくもありません。しかしながら井伊家はこの後石高を減らされ、あれだけ恩を受けたはずの徳川を裏切るまでに至ります。
それから前回で、慶喜より直弼が上座というのがおかしいという声があったようです。そのため慶喜が立ち上がって、直弼のすぐ目の前まで近づいたり、立ったまま怒鳴りつけたりという流れになっているとも考えられます。あと甲冑や旗を部屋に並べている点、これもなぜなのかよくわかりませんが、あるいはペリー来航時に彦根藩が警備を担当していたため、藩主自らかつての武具を持ち出していたとも考えられます。彦根は常に徳川の先鋒を務める存在でした。結局この場合、慶喜、左内、吉之助は急遽押しかけて来ているわけですし、それを片付けるわけにも行かず、むしろ非常時を意識したセッティングで迎えたという見方もできそうです。
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