昨日の続きになります。『西郷どん』に対して批判的な人は、主に『翔ぶが如く』や『篤姫』を観ていた人、あるいは原作の林真理子さん、脚本の中園ミホさんが嫌いな人が多いと思われます。『翔ぶが如く』については先日書いたように、描かれ方が異なるわけですから、むしろ違いを楽しむ方向で観ています。『篤姫』もまたしかりです。しかし『篤姫』は前半はあまり好きでなく、彼女が天璋院になってからの方が好きでした。それから原作と脚本についてですが、嫌いな人を無理に好きになれとは言いませんが、この2人だから面白くないと決めつけるのは、やはり疑問に思えるものがあります。
それからとある学者の方のブログで『西郷どん』が
「何かが足りなく、何かが余っている」
という表現をされていたこともあります。その方はこの大河が好きで観ておられるようですが、確かに足りない物、余っている物があるのは事実でしょう。そしてその足りない部分を、余っている物で埋め合わせしているようで、その辺りにどこかもどかしいという印象を受ける人もいるかもしれません。またその方は、やはりというか『翔ぶが如く』を引き合いに出しておられ、これを超えられるかとも書いておられます。
この『翔ぶが如く』を引き合いに出すというのは、いうなれば、『真田太平記』と『真田丸』を比較するのに似たものがあります。無論全く違う制作陣ですから、同じように行くわけはありません。個人的には超える超えないというより、同じ西郷吉之助を描いた、2つの異なった大河として見るべきだろうと思います。それと批判する場合に、かつての名作を引き合いに出してというのは、やり方によっては、どこか原理主義的な物を感じずにはいられません。つまり引き合いに出すに当たって、過去の作品の無謬性、聖域化が前提となっているような印象を受けるわけです。ちなみに私も、『翔ぶが如く』はいい作品であるとは思います。
それからテレビ番組関連の掲示板などでは、批判する傾向が顕著であるように思います。恐らくこれは掲示板の特徴ともいえる煽り、感情的な物言いが強く支配しているせいもあるでしょう。しかし中には冷静な意見もあるし、また比較的客観的な意見の多いサイトもあるので、一概にはいえないかとは思います。また気に入らなければ全面否定、自分が嵌ったら全面肯定であるとか、批判する時にのみ史実や当時の習慣に言及するというのにも引っかかります。全面否定も全面肯定もどこか嘘くささを感じるからで、好きだけど批判するべき点もある、あまり気に入らないけれど、肯定するべき部分もあるというのが、結構多くの人の観方なのではないかと思われます。
私としては脚本が誰だから期待できるとか、あるいは出演者が誰だから期待できるというのはあまりありません。無論自分の好きな出演者やスタッフだから、何が何でも応援するとか肯定する、あるいはその逆のことをするということもしたくありません。大河は始まってみるまでは、評価しようにも評価できないわけです。再来年の大河が発表されたこともあり、今度は期待できるという声もあるようですが、これも結局始まってみないことには何とも言えません。何よりも、その前にまだ来年がありますし、この今までとは路線が違う大河もまだ未知の世界であり、期待できるかできないかはいまだお預け状態です。
2日間にわたって、いささか愚痴めいた文章をお届けしてしまいましたが、やはりどこか引っかかるものはありますので、今後また別の形で触れることになるかもしれません。しかし『平清盛』や『卯応天の門』など先延ばしになっていますので、そろそろやろうと考えています。
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