第3話 では、安政地震と共に、
蘭書翻訳取締令 による蘭方への規制が登場します。この年は安政2年(1855年)で、この取締令が出てから既に6年が経過していました。これは何かというと、幕府による蘭方への規制です。これにより、奥医師からも蘭方医が消え、以後伊東玄朴の台頭までこれが続きます。また、リンク先にもありますように、医学書は漢方医師の機関である医学館の許可を得ないと出版できなくなりました。このため、漢方医がこの取締令に絡んでいるともいわれています。これで蘭方医は、外科と眼科関係以外の治療は行えなくなりました。
良庵が遊郭の主人に、自分は内科の診察が出来ない、だから十三奴を診ることが出来ないというのはそのためですし、漢方医の猪河玄昌が、西町奉行所与力の品川雄二郎を連れて来るのも、良庵がいわば掟を破って投薬をしたからでした。この猪河玄昌は、良庵を完全に見下しており、お前のいうことなど聞く必要はないとばかりに、真田虫のせいであると言い張って、虫下ししか与えないため、十三奴は死亡します。
しかも医師でありながら、天命であるなどと言ってのける猪河に、良庵は怒りをあらわにします。そして、十三奴の死因が本当に炎症であるかを確認するために、腑分けを願い出ますが、取り合ってもらえず、適塾の塾生が腑分けするならということで、内々に許可が出ます。そして、案の定、腸内に膿がたまっているのを発見します。しかし開国により、この取締令はあまり意味をなさなくなって行きます。
この『陽だまりの樹』、次の回ではいよいよ適塾とヅーフ部屋が登場します。ヅーフ部屋とは、当時の蘭日辞典であるヅーフ(ドゥーフ)・ハルマが置かれた部屋のことで、この辞書が貴重品であるため、塾生たちは、単語の意味を調べる際には、この部屋にやって来て、必要な部分を書写していました。
実はこの辞書が出来た一因には、ナポレオン戦争があるといわれています。これは18世紀初頭、長崎の商館長(カピタン)として赴任していたヘンドリック・ドゥーフが、ナポレオン戦争により帰国できなくなった時期に、この辞書の編纂に着手したためです。あと、ナポレオン戦争による余波がもう一つあるのですが、それは次の番外編に回すことにしましょう。
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