「続き」の第二弾というのも妙なものですが、先日の補完という意味でこのようにさせていただきました。さて、あるブログに、「三谷幸喜のありふれた生活」(朝日新聞夕刊掲載)のコラムについて書かれており、この箇所の引用がありました。
高橋英樹さん扮する井伊直弼が桜田門外の変で討たれる、お馴染みのシーンは、その日の朝の直弼を描くだけで、省略された。それは「この作品は、歴史的名場面を再現したいのではない」という、作り手側の決意表明のように、僕には感じられた。
井上真央さんへのエールということですが、無論三谷氏は、来年の大河脚本担当という立場があるのも事実でしょう。しかし、実際『花燃ゆ』が歴史的名場面を排除しているかというと、そうとも言い難いわけです。松陰の下田踏海や、英国公使館焼き討ちや御成橋突破もしかりですし、今後も蛤御門の変とか長州征伐とか、最低限の「歴史的名場面」は登場させないと、ドラマとして成り立たなくなります。恐らくは「文を主人公にする以上、あまり無関係の歴史的場面を再現したくない」のではないでしょうか。だから、本来描かれてしかるべき薩摩とか幕府とかがさっぱり登場せず、文を主人公として登場させるために作られた場面ばかり増え、それに不満を持つ視聴者も多いのが現状かと思われます。
昨日の分にも貼りましたが、この産経の記事で
「吉田松陰の妹なんて知らないよ」「幕末を描けるのか」…新大河『花燃ゆ』主人公めぐる“困惑”と“自信” 脚本作成に当たって「(史実上の)『かせ』が少なくていい。思い切って“激動の時代”に飛び込ませることができる。」というコメントがあります。しかし文が「“激動の時代”に飛び込む」場面は、今のところおさんどんの場面とか、夫に会いに行く場面、あるいは何かに口を差し挟む場面程度です。これは脚本家としてのキャリアにもよるでしょうが、未知の存在をドラマ化して、それで視聴者を惹き込もうというのも、結構難しいのではないかと思います。
実際これは三谷氏が、『シャーロックホームズ』を学園物の人形劇にする際にも経験しておられますし(『シャーロックホームズ 完全メモリアルブック』)、恐らくこの大河もあれこれ議論もされていて、試行錯誤もかなりあったかもしれません。しかし、どうも「イケメン大河」などというPR方法では、もし裏方の分厚い努力があったとしても、それをどことなく感じにくくなってしまいます。その意味で、PR方法というのはきわめて大事なのです。
井上真央さんに関していえば、映画『永遠の0』で、主人公宮部久蔵の妻、松乃の役で出演していたことがありました。夫が戦死した後、内職をしながら一人娘を育てて、後の夫になる大石賢一郎と出会い、最初は拒絶するも、娘を通じて徐々に心を開くようになるのですが、時代設定や役柄が違うとはいえ、今の時点でその時のような演技が見られないのはやはり残念です。あの作品の中の表情の一つ一つは、本当にいいなと思ったものなのですが。
それから以前もやってはいますが、ガイドブック、いわゆる「大河ドラマ・ストーリー」と、前出の人形劇のメモリアルブックについて、また書こうと考えています。
スポンサーサイト