今川義元が桶狭間で戦死し、その一方で長尾景虎は上杉を継ぐことになります。この上杉に対して、信濃で一戦を交える予定の武田は、要所に城を築くことになります。その建設を請け負ったのは、かの香坂虎綱でした。
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長尾景虎は関東管領、上杉憲政の名跡を継ぐことになった。そのために関東平定を目論み、北条攻めを行う。また武田としても北条を助け、さらにこの動きを阻まなければ、信濃の領主たちは景虎になびく可能性があった。信濃で景虎と一戦交えるためにも、川中島周辺に城を作る必要はあり、勘助は牧城で香坂筑前守の養子となった春日虎綱と話し合う。城の建設予定地は八幡原で、香坂を城代とし、両者とも次の景虎との戦いに四郎を初陣させるつもりでいた。
しかしこの戦が長引けば、武田家が後継者不在となることも考えられた。元々武田の勝利は、勘助の謀略によって得られたところが大きかったが、今度はその策によって敗れることも考えられた。そして永禄3(1560)年8月29日、景虎は関東へ攻め込んで厩橋城を占拠する。この頃久留里城攻めにかかっていた北条氏康は、松山城へ引き上げた。
厩橋城には、関東の諸将が集まって来た、その中には憲政の腹心である長野業正もいた。大儀であったという憲政に、今はそなたの主はわしであると言う景虎。長野の顔色の悪さを倉賀野直行が咎めるが、北条の顔色が移っただけであると長野は取り繕う。また氏康は無理な戦はしないというが、その氏康がこの関東を奪った以上、油断はできなかった。しかし憲政が、竜若丸の仇を言うのに対し、景虎は天の命じるところによりと、それぞれの意見の食い違いが見られた。一方氏康は松山城から小田原城へ戻ることにした。
香坂の海津城が完成した。攻めるための城、勝つための城じゃと勘助。もっと築城について色々教えを乞いたいと言う香坂に、年齢はいくつだと尋ねる。34と答える香坂に勘助は、なぜ嫁を取らぬかと訊くが、香坂は山本様を見習ってと答える。
永禄4(1561)年正月。景虎たちはまだ厩橋城にいた。宇佐美定満は自分の部下となった平蔵に、お屋形様をどう思うかと尋ねる。「いくさがみの化身のよう」と答える平蔵に宇佐美は、皆がさように見たがっておるだけで、お屋形様は神でなく人に過ぎぬ、強大になれば驕りも生じるであろう、それが危ういと言って聞かせる。さらにその後、景虎は10万の兵を率いて忍城へ行き、城主成田長泰に自分の先鋒になるように命じる。そこへ成田の妻伊勢が現れた。都から嫁いで来ており、関東に来る途中は風が強く、霊峰富士も見られなかったと言う彼女の言葉を聞いて、景虎は成田に伊勢を人質とするように告げ、富士を見られよと言う。
しかし厩橋城攻めは当初の予定の3日では終わらなかった。小田原城が堅牢であるうえに、氏康が味方に補給路を断たせたためである。この場合、戦が長引くほど北条が有利になった。また今川氏真は、松平とのことで出陣が難しく、結局武田が北信濃の割ヶ嶽城を落とすことになる。これには相木と原が指揮官として選ばれた。この城攻めの最中、葉月が伝兵衛に近寄り、城主を降伏させることを伝える。機密事項であり、二人は互いに抱き合う振りをしながら密談をかわした。そして伝兵衛は葉月に、この戦が終わったら自分の嫁になってくれと言った。
ところで小田原城は、3日経っても落ちなかった。神仏の御加護は我にと景虎は言うが、伊勢は、戦をする神や仏が信じられぬと言う。それを聞いた景虎は小田原城の城門から酒を持って入り、矢や銃弾が彼を狙う中、己が力を信じ、悠々と酒盛りをしてみせた。氏康はそれを見てつぶやく。
「あのような敵と、我らは戦っておるのか」
その年の閏3月16日、景虎の上杉家の家督相続が、鶴岡八幡宮で行われた。沿道には関東の諸将が詰めかけ、成田長泰もその中にいたが、一人騎馬姿であった。参列していた宇佐美は、それを見てまずいと直感する。案の定景虎は、成田を非礼であると馬から引きずり下ろし、あらん限りの暴行を加えた。
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矢や銃弾が降り注ぐ中で、堂々と景虎が酒盛りをする回です。この景虎の動きを見計らって北条と武田が動きますが、今川はそれどころではありませんでした。無論、松平信康が岡崎城に立てこもり、今川を敵に回すような行動に出たためです。実際氏真が動いた場合、どうなったかはわかりませんが、彼(あるいは寿桂尼)がこの時やっていたのは、自分の配下にある国衆たちを押さえつけておくことでした。
そして武田は割ヶ嶽城を落とし、この時伝兵衛は葉月と夫婦約束をかわすことになります。そして勘助はといえば、香坂弾正虎綱に嫁を取る云々の話をしますが、恐らくこの時点でこの人物を、リツの夫にと考えていた感はあります。何と言っても自分の「教え子」に自分の「養女」を嫁になるのですがら、かなり好都合です。それにしても厩橋城、「前管領」憲政と、「現管領」景虎とが恐ろしく違った印象ですが、あれ家臣はどう思ったのでしょうか。
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