リツは勘助の娘となりますが、未だ妻の座に未練があるようです。そして武田晴信は、景虎との和睦を受け入れる代わりに信濃守護となります。その一方で景虎は関東管領を打診され、北条と武田双方と対峙する羽目になります。
***********************
ある日目を覚ました勘助は、そばにリツがいるのをを見つける。旦那様と呼ぶリツに、父上じゃと念を押す勘助。まだ夜は明けきっておらず、そなたは早起きじゃのうと言う勘助に、はやきこと風のごとくでございますと答えるリツ。どうも勘助は、亭主であることに慣れていなかった。
リツは勘助が持ち帰った摩利支天に祈った後、朝食の給仕をおくまに代わって引き受ける。いつお屋形様からの縁談があったのかと訊く勘助に、父からそのことを聞かされた、つまり勘助本人に会う前であったとリツは答える。また跡取りを産む様にといわれ、養女にするくらいならいっそ私が産んだ方がとまで踏み込む。そしてその年弘治2(1556)年8月、大熊朝秀は長尾家から武田へと寝返った。
その後大熊、真田などは長尾勢を調略し、切り崩しを図っていた。晴信は由布姫を失ったものを埋め合わせるかのように、戦へと乗り出していた。その頃真田幸隆は、妻との生活はどうだと勘助に訊くが、勘助は妻ではなく養女であると答える。そちに親としての慈愛はあるか、わしの二男三男であればくれてやらぬぞと幸隆は言い、いっそ妻にしてしまえと諭す。さらに、もしそなたに子がなくば、真田家が武田家の軍師になるとも言う。
この年幸隆によって、尼飾城が落ち、武田方の旭山城近くに築かれた葛山城も攻略されて、地侍を長尾方から引き離してしまう。さらに晴信は善光寺平に攻め入るが、越後は雪に閉ざされて身動きができなかった。これは合戦となるだろうと宇佐美定満。大熊が寝返ったせいで、いつになくはやっている宇佐美であったが、一方で景虎の帰郷により、長尾勢は団結の兆しを見せていた。結局晴信は景虎の挑発に乗らず、深志城から動こうとせず、弘治3(1557)年4月、第三次川中島合戦も雌雄決せずに終わった。
これも勝ち戦じゃと晴信。また武田についたことにより、北信濃の市河氏は所領を維持できた。しかしこれにより、景虎との合戦は避けられないものとなっていた。その頃将軍足利義輝の使者により和睦が促され、晴信は信濃守護となることを条件に承知する。和睦を破れば、将軍に盾突くことになると案じる馬場信春だったが、同じ守護同士であれば、正々堂々と戦えると勘助。しかし景虎は上杉憲政から、上杉の名跡を継いでほしいとの依頼を受けていた。そうすれば守護よりも地位が上になり、北条を破ることができるからだった。
景虎はその前に再度上洛し、管領の命を正式に受けることにした。実は和睦は上洛を促すものであり、今は三好と松永から近江に追われた将軍義輝は、景虎を頼りにしていた。しかし管領となれば、関八州を平定する必要があり、その隙に乗じる武田の動きをどう封じるかが問題だった。上洛前、景虎は浪に京の土産に何を所望するか尋ね、また宇佐美に、浪の嫁ぎ先を打診した。これでお屋形様の側室の夢がついえた浪は、その後城を出て出家してしまう。
その頃甲府でも、リツを誰に嫁がせるかで勘助が悩んでいた。太吉の子は養子に行ったり嫁にやったりで、嫡男茂吉しかおらず、他に独り身といえば伝兵衛しかいなかった。また晴信のほうは、由布姫を慈しむことができなかった自分を恥じていた。諏訪に残したのを後悔する晴信に、四郎様と姫様は、諏訪におられなければならないお方でしたと答える勘助。そして晴信は家臣や領民を慈しむという名目で出家した。永禄2(1559)年2月、晴信は出家して信玄となり、同時期に出家した原虎胤は清岩、真田幸隆は一徳斎、そして勘助は道鬼と名乗った。しかしリツは、侍の出家などうわべであると言い、酒を捨てようとしたため、少しだけなら構わぬと勘助はその場を凌ぐ。
そして越後の平蔵は、主の村上義清が長尾の軍門に下った今、軍師としての働き口を探していた。勘助が四十すぎで軍師になれたのなら、自分だってやってみせると虚勢を張る平蔵に、ヒサは今のままで十分幸せじゃと言う。そんな平蔵に、おぬしを試してみようと宇佐美はあることを命じる。それは駿河へ行き、かつての寅王丸、長笈と会うことだった。この長笈こそ、武田の主の首を討つべき人物であると、宇佐美は平蔵に間者として駿河行きを指示する。
***********************
武田が長尾勢を切り崩す中で、景虎はついに関東管領となるチャンスを得ます。さらに今まで雌雄決せずのまま終わった川中島の戦いで、決戦を行う時期も近いと思い、家臣のため領民のために、原、真田、そして勘助と共に出家の決意をします。その一方で、リツや浪の、それもかなり対照的な形での縁談が登場し、また真田家の三男(源五郎昌幸)の話題が出て来たりもします。『真田丸』の先駆け的存在とみなされる所以です。しかし、平蔵を行かせたのはやはりというか無謀のようです。
スポンサーサイト