今月の20日で、平尾氏が亡くなられてから、丸1年を迎えました。
さて1999年のワールドカップ、日本代表はかつてない自信とチーム力で、ウェールズでの大会に挑みました。その初戦となるのがサモア戦でした。このサモア戦は、サモアのスクラムハーフがスティーブン・バショップ、そして日本のスクラムハーフが弟のグレアム・バショップという兄弟対決でした。日本代表は明らかに固くなっているのが、国歌斉唱の場面からも見て取れました。そして、雨模様のグラウンドで試合が始まりました。
この代表には、フルバックに東芝府中(現東芝ブレイブルーパス)の松田努選手が選ばれていました。しかし、彼が負傷などで出られない場合に、そのリザーブとなるフルバックがいませんでした。元々フルバックは、松田選手か、ステファン・ミルン選手のどちらかを使うという体制だったのですが、ミルン選手はこの時は言っていませんでした。平尾氏は「チームがミルンを要らないと思えるところまで成長した」とコメントしましたが、実はこれには、日本のラグビー界ならではの事情がありました。
ミルン選手は、所属チーム(マツダ)の昇格のため、代表ではなくチームでプレーするように要請され、代表を離れていたのです。これは日本ラグビー協会が、それぞれの社会人チームに、代表のために選手をリリースするように、徹底して来なかったのが原因でした。つまり代表選手といえども、そのトレーニングやケアの大部分は所属チーム任せであり、そのため所属チームに対して強く出られなかったのです。もちろんこの反対の例もありました。
かつて日本のチームに所属している外国の代表選手を、所属チーム優先でプレーさせたため、その選手の国の協会から日本協会にクレームがついたことがありました。本来代表には選手をリリースするのが筋であり、クレームもやむなしではありましたが、日本協会にはそのような権限は実はなく、あくまでも選手が所属するチームにゆだねられていたわけです。これは日本以外でも見られたことですが、その後代表への選手のリリースが最優先されるようになって行きます。
ともあれ、フルバックのリザーブ不在はこの試合に大きな影響を与えました。松田選手が試合が始まって間もなく、肩を脱臼して退場したのです。この時はウィングの大畑大介選手が、フルバックに入ることになりました。しかし元々大畑選手はウィングの選手であり、フルバックの位置に戻る習慣がついておらず、時間を重ねると共に、サモアが優勢となりました。そして最終的には、9-43という完敗に終わりました。
またこの試合が行われたレクサムの競技場は、ウェールズにしては珍しくサッカーの競技場でした。そのためインゴールが狭くなっていました。サッカーはゴールポストが置けるスペースがあればいいのですが、ラグビーはインゴールに走り込んでトライするわけですから、インゴールが狭いというのも、何かしらの影響はあったかもしれませんが、それはサモアも同条件でした。やはりフルバックという守りの要を揃えなかったツケは、かなり大きなものでした。
平尾氏も、あるいは勝てると思っていたこの試合を落としたこともあるのか、試合後の記者会見はどこか曖昧であったといわれています。無論、チームに「型」が不在であったことも、敗因の一つではありましたし、元オールブラックスの選手と元から代表であった選手との、意思の疎通が今一つであったともいわれています。また日本代表は、ワールドカップの試合では必ずトライを挙げて来たのですが、この試合では初めてノートライに終わりました。
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