前回、平尾ジャパンでは外国籍選手が多く、選手たちが戸惑ったと書いています。正しくは日本人選手が戸惑ったというべきですが、彼らがなぜそうなったかというと、外国籍選手たちは手足の長い選手が多く、そのため日本代表に受け継がれて来た
「前に出て止める」
というディフェンス方法の持つ意味合いが薄れたからです。このディフェンスは、かの大西鐵之助氏の理論にもありました。外国人は槍、日本人は短刀であり、相手の懐深くに刺さらなければならないというのが、日本代表のディフェンスだったというわけです。
しかしこれがなかなか功を奏しない時もありました。好プレイが比較的多かった宿沢ジャパンの試合でも、ボールを持った選手に他の選手が追い付かず、孤立してボールを取られたり、その逆にボールを奪い返せなかったりする例が見られました。アイルランド戦では、ボールを持った吉田義人氏をサポートする選手よりも、タッチジャッジのビショップ氏の方が足が速いなどといわれたりもしました。しかし平尾氏が監督になると、状況は一変します。
外国籍選手が多くなったことで、彼らが長い手で相手を捕まえてくれ、しかもスピードにも勝っていて、相手を比較的簡単に倒せるようになりました。ディフェンスは格段によくなり、これがプレイの安定化につながったのは事実でした。しかしそれが逆に、日本人らしいプレイの影が薄くなる一因ともなりました。これについては日本人同士、外国人同士に分かれてミーティングを行ったという話があります。この当時、日本代表のキャプテンは、当時の東芝府中、今の東芝ブレイブルーパスのアンドリュー・マコーミック氏でした。チームを二分するという理由で彼は反対したものの、今度限りだからということで行われたようです。
このことについて、代表首脳陣が何か言及したかは不明です。一方で、チームには平尾監督の考えのもと、「型」にはめないという方針を取って来ましたが、1999年ワールドカップのアジア予選の前に行われたアルゼンチン代表(ロス・プマス)戦で、一応型らしきものが持ち込まれ、選手たちがかなりの力を発揮できるようになりました。実際この試合では、ホームゲームで、相手には初キャップの選手もいたものの、44-29で勝利しています。そしてその後、1998年10月のアジア予選で、日本は4大会続けての出場権を獲得します。
ところでこの後、12月にはラグビーのアジア大会がありました。これは出生国主義で、日本代表は日本人選手しか出場できませんでした。それでも決勝まで行ったのですが、決勝の相手韓国は、優勝したら兵役免除となっていました。しかも日本はワールドカップ行きを決めており、モチベーションに大きな差があって、結局日本は準優勝に終わりました。これが、日本代表は外国人頼みという印象を与えたとする記事もありました。
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