前回からの間隔がちょっと狭まります。南アワールドカップ後の代表への評価は、ラグビーメディアではかなり厳しいものでした。ニュージーランド戦での145失点もさることながら、代表そのもののあるべき姿についてかなりの批判を呼び、しかも、チームは一枚岩ではありませんでした。選手の一部には、徹底的に自分を追い込み、宿舎へも走って帰る選手もいて、彼らはファイアーグループと呼ばれました。このグループの選手たちは、代表のあるべき姿を自分たちなりに考え、ワールドカップ後、日本ラグビー協会から代表改正案を求められた時も、積極的に意見していました。
平尾氏は、このファイアーグループではありませんでした。自分を徹底的に追い込むということはなく、どちらかといえばラグビー漬けになるよりは、公私をきちんと分けたがるタイプでした。そのため、問題になったカジノにも他の選手と足を運んでいて、これは個人の自由だと公言していました。無論これには異論もありました。ワールドカップは個人の旅行でない以上、まず結果を出すこと、日本のラグビーを認めてもらえることが先決であり、それを果たしたうえでのカジノ通いであろうという論調の記事も発表されていました。
そもそも代表に選ばれた選手たちは、国内大会ではあれほど目つきが変わるのに、ワールドカップになると真剣味が薄れてしまうという記事もありました。この当時、ワールドカップに出場した選手たちは、プロが認められていないこともあり、全員建前としては会社員であること、そのため現地で土産物も調達せねならず、時にはカジノも覗きたくなるのも、全くわからないことではありませんでしたし、その意味では平尾氏の「個人の自由」もうなずけなくありませんでした。しかしワールドカップ本来の目的を考えた場合、やはりどこか違うのも事実でした。
無論平尾氏も、勝てない代表には苛立っていました。そして、国内ではどこでも横綱相撲をやっているが、それではいけないという意見を述べてもいました。結構持論を述べる人でもあったことから、恐らく代表再建論も考えており、次の代表首脳陣に入るのではないか、そのように思ってもいましたが、実際は元サントリーの山本巌氏と、当時の明治大学の監督であった、北島忠治氏の長男の北島治彦氏が新首脳陣に決定しました。
この首脳陣は正直な話、中継ぎといった印象がありました。ただし、パシフィック・リム・チャンピオンシップを成立させたという実績もありました。当初の予定がスポンサーの辞退から、規模の縮小を余儀なくされ、日本と香港、そして北米2国でスタートしたこの選手権は、後にアイランダー諸国と呼ばれるフィジー、サモア、トンガなどを加えた選手権のベースを作ることになります。しかしプロ化が進む海外をよそに、日本協会がそれ以上のアクションを取るようには見えませんでした。
しかも協会の姿勢が、先人への敬意、そして国際試合の盛り上げといったものを無視した感があるのも事実でした。ワールドカップ後、日本代表(実質的には選抜レベル)の試合が行われた際、その少し前、秩父宮雍仁親王の妃であり、ラグビー協会名誉総裁をも務められた、秩父宮勢津子妃殿下が薨去されており、かつての代表及び早稲田の監督である、大西鐵之助氏も逝去していました。しかしそれに対しての黙祷すらなく、観客が自主的に黙祷をしたという話もあるほどでした。
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