諏訪に落ち着いた由布姫は懐妊します。その一方で、今川と北条の間の緊張が高まり、この機に乗じて信濃を取り返したいと村上義清は考えます。しかし武田はそうはさせじと、両者を和睦させる策を取ります。
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天文14(1545)年の晩春。諏訪の小坂観音院で暮らすようになった由布姫は、妊娠したことを、訪れて来た勘助に告げる。伊那での戦の際、晴信はここにしばらく留まっていた。自分がひどい仕打ちをして来たのではないかと案ずる由布姫。そなたのお陰で助かったと言い、またお屋形様と、生まれてくる子供のことを頼むと勘助に伝える。勘助は感極まり、お子様は、きっと和子様にございますと口にする。
しかしこの頃、武田軍は信濃侵攻を行い、守護小笠原長時は到底歯が立たない状態だった。葛尾城主村上義清は、今川と北条が、富士川以東の地域を巡って一触即発状態となり、このままでは今川との盟約により、武田もそちらに兵を割かざるを得ない状況だった。この件に関して、太源雪斎が躑躅ヶ崎を訪れる。武田家では、郡内の領主で今川とも誼のある小山田信有が、北条と和議をまず結び、宇関東管領上杉の進軍に備えるように提案する。
一方で勘助は、今川と北条を和解させ、双方に恩を売るのはどうかと提案する。小山田は不服げであるものの、晴信はそれにうなずく。今川本陣の善徳寺城で、庵原之政と再会する勘助。之政も、実は雪斎がこの戦に乗り気でなかったことを教える。雪斎は勘助に会い、主の今川義元に引き合わせる。勘助は義元に、此度の武田の出兵は双方に兵を退かせるためのもの、兵を引けば、富士郡と駿東郡は今川家の領土とすることを話す。武田にそんな権限はないと言う義元。
しかし今川家の後ろ盾があればそれは可能なこと、北条をつぶすことで得る物はないことを義元は理解し、和解の誓詞をしたためるに当たって、しかるべき家臣を連れて来るように言う。そして8月11日、駒井政武立会いのもとで誓詞がしたためられた。寿桂尼は之政に、軍師としての勘助に会ってみたかったと言い、あの者をなぜ間者として使わないのかと不思議がる。一方武田本陣の本栖では、勘助が、この和睦はすべて雪斎の計略であったと小山田に伝える。
それは晴信の口ぶりと、雪斎が勘助に言った「よい主を持たれた」に象徴されていた。武田家で唯一晴信のみがそれを理解し、勘助の駿府行きを許したのである。自分はお屋形の器ではないのかと悔しがる小山田。そして本陣には板垣信方が来ていた。板垣は上杉が河越城を包囲したことを告げ、勘助は、その場を検分するべく、河越に行くことの許可を得る。氏康が承知すればよいと晴信。そして板垣は、少し離れた場所で勘助にあることを尋ねる。
実は由布姫が諏訪から甲斐に戻ろうとして、勘助がそれを追っていたところを伝兵衛が目撃していた。伝兵衛からそれを聞いた板垣は、そなたは姫を慕うておるのか、今も訪ねているようだが、お屋形様を二人で欺いておるまいなと尋ねたのである。勘助は、国を追われ、各地を放浪した自分には人こそが国、姫様もお屋形様も、板垣様も大事な存在であると言い、板垣は、山本勘助という男が少しわかったとうなずく。
そして板垣と勘助は、北条の本陣である吉原城へ向かった。氏康は勘助に、武田を存分に見極められるようになったら、戻って来いと言ったのを思い出した。勘助は義元の誓詞を渡し、今回の和睦が勘助の注進であったことを話す。そちを召し抱えなかった儂には、見る目があったであろうと氏康。その後駿河で、義元は晴信と駒井に海を見せた。いずれ自分でも海へ出たいと言い、哄笑する晴信。その頃勘助は、ある目的を持って河越へと向かっていた。
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小山田信有が雪斎と共に評定の場に姿を現します。駿河と縁の深い自分なら、今川と北条との緊張関係に、答えを出して見せると考えていたようですが、晴信は勘助の案を採用します。そして駿河に向かった勘助は、庵原之政と会い、雪斎が戦に乗り気でなかったことを知り、さらに雪斎の「よい主」、晴信の口ぶりなどといった条件から、雪斎は本当は、武田に和睦を結ばせたかったのではないかと察するに至ります。
それにしても最後のシーン、海(太平洋)をやや得意げに見せる義元は、今回の戦に加わっていれば、海の見える城を与えたものをと晴信に言います。義元は家臣への威信のためにも戦をし、後顧の憂いを断ち切ってから、西へ兵を向けたかったようです。それに対して晴信は、自力で海に出たいと言いますが、それから20年余り後、武田が駿河侵攻を企てることを考えると、かなりこれは意味深であるといえます。
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