まず、『おんな城主 直虎』の公式サイトにこのような記事がありました。
演出で振り返る直虎の歩み ところで渡辺氏の肩書が「チーフプロデューサー」となっています。この方はディレクターであり、プロデューサーは岡本幸江氏のはずです。今後修正があるかもしれませんので、今回は一応魚拓を取ってリンクしています。
この中でこういう箇所があります。
森下佳子さんの脚本に描かれている直虎は、とにかく“前へ前へ”と突き進み、選択肢が3つあったら、あえて最も厳しい道を選びとり、そこに活路を見出すという人物です。そんなバイタリティー、活力、行動力をしっかりと見せたいと思いました。 バイタリティーとか活力、行動力というのは、女性大河の主人公によく使われるように思えます。『花燃ゆ』の主人公も、似たような表現をされていました。なぜかといいますと、
それしかない からです。つまり歴史上に何か残したわけでもない、偉業を成し遂げたわけでもない、要は制作サイドが創作した道を、活力や行動力を持って歩かせますよということになるわけです。こういう表現がある時点で、正直な話、この大河の売りはそこだけなのだなとなってしまいます。
しかも本当に直虎が自ら悩み、自分で選択肢を選び取って活路を見出すのかというと、そうでもないわけです。大抵瀬戸方久がアイデアを出してくれる、実務や交渉は政次が請け負ってくれる、おまけに龍雲丸は、この間は城まで作ってくれているわけです。彼女はOKを出すだけで、後は都合よくことが運ぶ展開ですから、一人で悩んで決断を下すという印象がきわめて乏しく感じられます。
それと「敢えて最も厳しい道」というのが、如何にも朝ドラ風です。そもそも戦国時代というのは、他の大名との外交や戦闘などで、すべてが目まぐるしく動き回っている時代です。そのような時には「最も厳しい道」ではなく、「最も効率のいい道」を普通取るのではないでしょうか。無論直虎が取った効率のいい道が、結果的に厳しい道となることもあるでしょうが、そこまで敢えて主人公に苦行をさせるべきなのでしょうか。こういう点からも井伊谷が、戦国の実社会からかけ離れた小宇宙、あるいはパラレルワールド的という印象を免れないわけです。
またこういうコメントもあります。
そんな中、小野政次については当初から井伊直親との対比で「光と影」の影を担ってもらっていますが、ちょっとした影や裏を感じさせるなかで時折見せる笑顔がポイントでしたね。 この政次が、最後まで直虎といわば対決する姿勢であれば、それもあったでしょう。しかし早々と、政次が直虎の味方ですよとばらしてしまったせいで、その魅力も薄れてしまいました。男女関係とも主従関係ともつかない微妙な関係を描きたいのであれば、最後の最後までこれは表に出すべきではなかったと思います。如何にも中途半端です。
微妙な男女関係といえば、『風林火山』の勘助と由布姫も、なかなかにそれっぽいところがあると思います。これは結局、互いが胸の内をさらけ出すことはなく、勘助が勝頼に自らの思いを託する辺りに、それらしさが垣間見えるわけです。
その『風林火山』のエグゼクティブ・ディレクターの清水氏によれば、
私自身のひそかな野望を言うなら、「哀しい大河にしたいな」という思いがあるんですよ。つまり勘助の由布姫への恋慕ですね。女性を寄せつけなかった独眼の男が、老いらくの恋をする。これはやはり哀しいテーマです。 (NHK大河ドラマ・ストーリー 風林火山 前編)
『直虎』の制作チームのトップに、哀しさやネガティブさを理解する人がいれば、直虎と政次のシーンにおいて、もう少し内に秘めた物が描かれたのかもしれません。
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