今回のあれこれについてですが、その前に、今後もこのような路線が続くのかと思い、ガイドブックを見てみました。結論からいえば、続くようです。ネタバレになりますが、生きる術を身に着けさせるために
「直虎は読み書き・薬草の知識・護身術・銭の取引などを領民たちに教えるように」
なるようです。しかもそれが、龍雲丸に影響されてのものらしい。そして盗賊たちも、井伊に仕官を持ち掛けられてそれに乗るようで、こうなったら何でもありだなと思えてしまいます。お笑いネタもあるようで、何やらコメディー大河のようになっています。
そもそも、ストーリーが盛り過ぎの感があります。本当は、もっとシンプルな路線にした方がいいのではとも思います。その一方で、せっかくネタを振っているのに、一話完結のような形ででおしまいになったり、今川仮名目録や兵法などが、小道具的に扱われているふしもあります。もったいない話です。
またあらすじの小見出しに
「人を取り込む直虎の天性」 ともあります。これを見て思い出すのが、『花燃ゆ』第一回の
「人むすぶ妹」 というサブタイです。要は史料がないから、制作サイドの好きなように、様々な登場人物と絡ませられるわけです。今まで城主編になってからも、『花燃ゆ』よりはましだと思って来ましたが、どうも
『花燃ゆ』とどっこいになりつつあるようです。 この両者にいえることですが、史料が少なく、小説ベースでもないため、ドラマを貫くプロットの存在が感じられず、そのため方向性が見えにくくなっています。それでも『直虎』の場合は、まだ領主になって徳政令を出す、虎松の後見人になるのはわかっていたわけですから、描き方を工夫する方法もあったのですが。
そして本編ですが、直虎が財布をすられ、子供を追い回すシーンですが、なんだかサザエさんが、カツオ君を追い回しているように見えて仕方ありません。そもそもそれだけ金目のものなら、奥山六左衛門なり、瀬戸方久なりに持たせるべきではないでしょうか。
しかもそこそこの年齢の女性が、大人げないなと思います。おとわの頃は、子供だからこそあちこち走り回り、しかも時に周囲を騒ぎに巻き込んでも許されたわけです。無論その時は、彼女を叱る存在もまたいたわけです。そして今回も気賀での無茶振りを、母の祐椿尼のみならず、養女の高瀬にまでたしなめられるわけですが、彼女のことだからまた同じ行動に走りそうです。
また、『平清盛』の盗賊団を思わせるいでたちの盗賊団も、結局は尺稼ぎであり場つなぎなわけです。彼らを出す出さないの問題もありますが、やはりここで問題にされるべきは、そうまでしないと、大河50話を作れない人物を、無理に大河の主人公にすることもなかったということです。同じ国衆でも、それが真田の違いですし。実際このドラマは、〇曜時代劇とか、BS時代劇ならそこそこ笑えて楽しめると思われます。
それと
「武家は泥棒だ」 には引きますね。百姓は搾取の対象というのは、まるで共産主義です。しかもそれを盾に、人から物を盗むのを正当化するという発想にも、ちょっとついて行けません。そして直虎も、かつて蕪を盗んだことを例に挙げて、龍雲丸を諭すわけですが、どうも体のいい犯罪者更生策のようにしか見えず、これまた違和感があります。
この時代、泥棒を生業としなければならない者もいたでしょうが、少なくとも領主が歩み寄って、うちで働けなどというのも、さてどれだけ例があったのでしょうか。それと井伊家は、今度は材木にまで手を広げているようですが、またトラブルが起きそうな感じです。無論トラブルを起こさないと、話をつないで行けないという事情もあるのでしょうが、
史料なし、原作なしの限度をどうにも感じずにはいられません。
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