今年の大河も既に3分の1が終わりました。直虎の出家時代までは、こういうのもありかと思って観ていましたが、城主(というか虎松の後見人)になってからは、興味を惹かれる話題もある一方で、その描かれ方がやはり気になります。家中の総意というよりは、直虎個人が関心を持ったものを、あれもいい、これもいいと勧めている感じで、なぜそれが必要なのかと掘り下げる描写に、やや欠けるように思います。
それと、方久とか龍雲丸とかいった、外部の人間の意見を参考にしたがる点が、やはり気になります。彼らが間者でないという保証は、まるでないのですが…氏真が第17回で、百姓たちの中の間者に言及していたのは、これと関係があるのかと思います。無論、井伊家そのものに人材がおらず、小野但馬守政次は目付であること、しかも、彼の言を直虎が受け入れたがらないこと(これもどうかなとは思いますが)で、ああいう人物を登場させる展開になるのでしょう。
ネタバレですが、この先龍雲丸がかなり絡むようになります。しかも直親の隠し子まで登場し、直虎がそれに裏切られたと憤慨するようですが、こういう描き方は如何なものかなと思います。実際観てみないと何ともいえませんが、戦国の、大国のはざまで生きた領主らしく、自身で施政を打ち出し、しかもストイックなイメージになるかと思っていたのですが…どうもその逆のようです。ある程度創作を入れないとドラマにならないのは事実ですが、問題はその創作の質でしょう。
ところで南渓和尚が直虎のことを、諦めが悪く型にはまらないと評しています。普通「諦めが悪い」は短所としての表現なのですが、あの南渓和尚のことですから、故意に使っている感があります。それはいいのですが、「型にはまらない」と言っても、領主としてかくあれと言われたことを、わざと外しているというわけではなく、はじめから自分の思うままにやっているイメージなので、今更感があります。むしろこの人は、何らかの枷をはめた方がいいようにさえ思います。
この表現は、先日書いた森下佳子さんの、脚本に対する姿勢に関してのこの言葉を思わせます。
「大河ドラマのなかには、「歴史を伝えなくちゃ」とか、「歴史ドラマだからこうじゃなくちゃ」という使命感や制約に締め付けられている作品があって、ドラマが息をしていないように見えるときがありました」
だから、私が思う自由で生き生きした直虎を描きたいということなのですが、史実を重んじるのと、型にはめるとはまた意味が異なるでしょう。何よりも「型にはまら(め)ない」というのは、そこまでいいことなのかどうか。むしろ肝心の型がない分、ばらけやすい、収拾がつかない状態にもなりやすいわけです。実際直虎もそうなりがちで、それを他者にサポートしてもらっているというのが、本当のところでしょう。
唐突ではありますが、これは、かつての平尾誠二氏のラグビー代表強化にも通じるものがあります。これに関しては関連投稿で書きますが、「型にはめると個々の自由な発想ができない」という視点から、チームに特定の型を作らず、素の力を大事にするという強化方針を打ち出し、その方針のもと強化に取り組んでいました、しかし、結局格上の相手を、その方法だけで倒すことはできませんでした。
しかし20回から30回にかけては、前半の山場となるのに、オリジナルキャラ頼みで大丈夫なのでしょうか。その辺が、やや不安をぬぐえないところではあります。無論、それがいい形で裏切られるといいのですが。
それともし可能であれば、この『直虎』を、自分なりにリメイクしてみようかと考えています。あくまでも、書けたらの話ですが。
スポンサーサイト