昨日の「大河とどう付き合うべきか 2」で、昔の大河には原作があったと書いています。実際最初の『花の生涯』から、1980年代頃までの殆どは原作のドラマ化でした。原作者には大仏次郎、吉川英治、山岡荘八、子母沢寛、海音寺潮五郎、そして司馬遼太郎と名だたる人たちが顔を揃えていました。ガイドブックがいつから出版されるようになったのかは不明ですが、1977年の『花神』のがありますから、70年代には何らかの形で発売されるようになっていたのでしょう。
90年代に入ると原作付き大河は少なくなり、脚本家がオリジナルを書くようになって、そのノベライゼーションが発売されるようになります。原作があるのとないのとどちらがいいのか、一概にはいえません。昨日書いたように、原作があるとその世界に溶け込みやすい、そういうメリットはあるかもしれません。特に、自分が好きな作家の作品が大河になるのであれば、是非観てみたい、そういった側面もあり、それが大河を盛り上げていたとも思われます。
もちろん小説ですからストーリーがあり、それに従って脚色化すればいいわけですから、そうはずれもなかったかと思います。1970年代から80年代に、大河ドラマの視聴人口が多かったのは、無論BSやCS、ネットがなかったせいもあるでしょうが、そういう小説を読む人口がまた多かったともいえます。また原作が、必ずしも史実通りでなかったとしても、受け入れられたということもあるでしょう。小説もある種の創作、パペットホームズの言葉を借りれば「作家が頭で空想した」部分も結構あるわけです。
それを考えると、今の時代の大河は結構微妙な位置にあるわけです。歴史小説の原作そのものが少なくなっている、それを読む人口も少なくなっている、BSやCS、そして昔は大河に太刀打ちできなかった民放番組も、今や視聴率を稼げるようになっている。しかも史実に沿っているかどうかの突っ込みも入る-これは以前もあったようですが-わけですから、作る側としても難しい。結局それが、作品によってかなりばらつきのある印象を与える、その一因になっているようにも見えます。
70年代から80年代頃の大河に比べると、重々しさ、合戦のシーンがないという指摘はよくあります。しかしその当時の小説ベースの大河と、今の大河では土台となる部分が違うこと、俳優さんたちも違って来ていることを考えれば、致し方ない部分もあります。無論、これはただ大河だけを比較するのではなく、その当時と今のエンタメ、大河の置かれた位置そのものの違いから、論じる必要があるのではと思います。
それと戦闘シーンに関してですが、私自身あまり経験がないのでよくわからないのですが、ゲームの戦闘シーンも影響しているのかと思います。ゲームだとかなりリアルな物も多いし、それに慣れた目には、戦闘シーン、あるいは修羅場的なシーンが少ないのが、物足りなく映るのではないかとも思われます。昨年シブサワ・コウ氏の3Dマップが人気を集めたのもそのためでしょう。ただしこれも、実写のドラマの場合はかなり事情が違って来ます。屋外の戦闘シーンというのは、結構経費もかかりますので、それこそ予算があれば作れるのでしょう。
昔の、小説ベースの大河を今の時代にスライドさせること、それと似たような作品を作ることは、不可能とはいわずともやはり難しいといえます。それゆえ、日常を事細かに描く方向に向かうわけで、80年代頃の作品とは、その辺を分けて考える必要もあります。『おんな城主 直虎』第6回で描かれている日常が、あっさりして突っ込みどころがないという記述を見たこともあります。しかしその日常に何の意味があるか、それを探って行くと、結構面白く感じられるものなのですが。
しかし最近大河だらけになっています。そのうち映画評なども投稿予定ではあります、一応。
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