あまり関連性がないと思われるかもしれませんが、ちょっとこの両者に共通するものがありますので書いておきます。『真田丸』全体の感想は、多分年明けになると思いますが、よかった点とよくなかった点にまとめる予定です。
1999年ラグビーW杯は、故・平尾誠二氏が監督の頃で、1998年頃から代表資格のある外国人選手を多く入れ、ディフェンスもよくなり、勝ち星も多くなって行きました。その一方で、本来の日本らしさが薄れたという指摘もあり、また「型にはめない」のを旨とする強化方針のもと、選手たちがどうやってプレイしたらいいかを、つかみかねている部分もありました。
一方で、本番に向けて着々と好成績を積み上げていたため、ファンも期待するようになり、また協会サイドも、それを機にファンが増えるのを望んでいたふしがあります。しかし本大会では、さほどの見せ場もなく終わりました。
ウェールズ相手にかなりの失点はしたものの、大敗はしなかったのですが、日本らしいパス回しも、組織でトライを狙うプレイもなく、しかもリザーブの選手が十分とはいえませんでした。これには別の理由があるので後述(*)します。
今回、『真田丸』最終回を観ていて思ったのですが、三谷氏の脚本は賛否両論あったもの、最終回でどのように盛り上がるか期待していた人は多かったでしょう。恐らくはそれを盛り上げるために、連日のように上田でトークショーも行われたわけです。
しかし最終回、家康の逃げのシーン以外は、あまりこれといった見せ場のない回になったのは、やはり残念です。前にも書いてはいますが、戦闘エピソードらしい、荒々しさと緊迫感を持って終わってほしかった。それと豊臣方が、如何にも非力な印象だったのも今一つでした。
それと最終回放送前ですが、制作統括の吉川邦夫氏が、スポニチ記事でこのようなことを言っておられます。元々長めの脚本をスタッフが削って行くというくだりですが、
そうすると、人がAからCに変化する時、普通は変化するためのBというシーンがあるんですが、ポーンとなくなってしまうことがあります。一見すると感情が飛んでいるですが、飛ばすことによって、逆にその間にどういうふうに人が変わるのかというのを、視聴者の皆さんが想像することができる。ある意味、視聴者の皆さんを信じているとも言えますが、間を全部説明しようとしない。
「真田丸」三谷脚本はどう作られた?行間が深いワケ…“参謀”が明かす秘密 (スポニチアネックス)
これはちょっと曖昧模糊とした感があります。つまり過程を飛ばしたことで、ある人物やシーンが急に変化したのはなぜか、視聴者が自分で考えてほしいということなのでしょうが、これはやはりきちんと描いてしかるべきでしょう。でないと、視聴者がそれぞれ勝手に見方を投影するようになり、一定の方向性が生まれにくくなる印象があります。
こういう部分、あるいはその少し前の、人物を定型にはめたくないという辺りには、平尾監督時代のラグビー代表の「形の無さ」を何か連想させます。それぞれの状況判断がものを言うとは、平尾氏の言葉でしたが、やはりある程度の形を作り、どの場面でどう動くかを共有させないと、チームとしての連携ができにくくなるのも事実でしょう。
三谷氏も平尾氏もほぼ同年代であり、非凡であるといわれ、マスコミ露出も増えて、そのためどこかカリスマ的な存在になって行ったところがあります。そういう人は、どこか「形にはめない」という前提のもと、勇み足をしがちになるのでしょうか。
大坂の陣関係エピも、人間ドラマ、三谷ドラマとして観るのならそれなりに楽しめたと思います。しかしこれは合戦が中心で、しかも主人公の最大の見せ場であり、また大河ドラマである以上、やはりもう少し工夫がほしかったし、それぞれの人物の背景ももう少し掘り下げてよかったでしょう。
後藤又兵衛は、あれだとぽっと出の印象がありました。実際この人は黒田家に仕えて、朝鮮での戦役も経験しているわけですから、実際には唐入りはさほど描かれなかったものの、セリフなどにそれらしさを忍ばせることは可能だったかもしれません。
それと、これはあれこれに書くべきだったかもしれませんが、ナレ退場した片桐且元が、なぜかまた登場して高台院に会っているのはちょっと苦笑物でした。あれは片桐さんが、大坂の陣のことを話していたわけですが、大坂城が落ちるのは京からは見えなかったのでしょうか。
(*)この当時、所属チームは必ず代表チームに選手を送るという規定がなく、そのため代表に不可欠だったにもかかわらず、所属チームの都合で代表入りを見送らざるをえなかった選手もいました。ワールドカップ本大会のみならず、翌年の国際試合でもそれが表面化し、そのため日本協会も代表を優先させるようになって行きます。
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