いよいよ鎌倉幕府滅亡です。しかし『太平記』はこれからがいよいよ正念場なのですが…幕臣である足利高氏が後醍醐天皇側につくことになり、鎌倉攻めの新田義貞は、剣を稲村崎で海に投じます。
*************************
名越高家が討死し、南北の六波羅は風雲急を告げる事態となっており、兵をかき集めることに腐心する。そして北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は北の六波羅の館に入る。一方で、高氏の長男で人質に取られていた千寿王は、潜んでいた大蔵谷を何者かによって連れ出された。
5月7日未明、足利高氏は2万5千余りの兵を率いて丹波を出たが、今日に到着する頃にはその倍になっており、これに赤松の軍、そして後醍醐天皇の側近である、千種忠顕の軍が合流した。迎え撃つ六波羅勢は6万騎であったが、足利連合軍はこれを破り、六波羅の南北それぞれの探題は、帝と上皇を連れ落ちのびて行った。
しかし南探題の北条時益は途中で落命、光厳天皇は負傷、そして多くの敵軍を前に、北探題の北条仲時をはじめ400人以上の武士が自害して果てた。光厳天皇と二人の上皇は京へ送還された。そして上野では、新田義貞が挙兵していた。
幕府は京に軍を送る予定だったが、まず新田勢を討ち取ることにした。武蔵国小手指原で両軍は相まみえる。その最中、六波羅陥落の知らせが伝わり、退却する幕府軍を追って、新田軍もまた鎌倉へと馬を進めた。5月21日、稲村崎沖に敵の船を見た義貞は、海が開かれんことをと、剣を海に投げ入れる。
その後潮が引いたのを見た義貞は、馬を進めて鎌倉に入る。酒宴を張っていた北条高時は、嶋津四郎を当てにしていたが、あっさり降伏してしまう。さらにその後、新たに探題職を任じた金沢貞時、そして大仏貞直も戦死、高時たちは東勝寺へと逃げる。そしてその場で高時、長崎円喜と弟の高重、駿河時顕らも自刃して、鎌倉幕府は滅亡した。元弘3年(1333)5月22日だった。
*************************
鎌倉幕府が終焉の時を迎えます。大河ドラマでは、確か金沢貞時も東勝寺で自刃する設定でした。また新田義貞勢は稲村崎を渡った後、極楽寺口から鎌倉入りします。この後時代は建武の新政となるわけですが、そこで今度は新たな問題が表面化します。
それからここのところお休みしていた『応天の門』、また来月辺りから再開しようと考えています。年末に始めるのも何ですが、年明けはまた新しい大河もスタートするので、その前からぼつぼつ始めておいた方がいいかと思っています。
スポンサーサイト