正しくは、「大坂の陣をはじめとする牢人衆の蜂起とジャコバイト」とでもするべきかもしれません。関ヶ原後の改易ラッシュにより牢人が増え、さらに大坂の陣後の改易でまた増え、治安に影響するようになったことは、「
幕府VS牢(浪)人-慶安の変と承応の変 」にも書いています。これが収まった時には、既に関ヶ原から半世紀近い月日が経とうとしていました。
ジャコバイトとは、名誉革命への反乱勢力です。17世紀のイングランドでは、名誉革命によってジェームズ2世が王位を追われ、娘であるメアリー女王と、夫のウィリアム3世が王位につきます。そして権利の章典が発布され、議会政治が始まります。しかし、なぜジェームズ2世を退位させたのに、その娘を迎えたのか。それは、メアリーがプロテスタントだったためです。ジェームズ2世はカトリックでした。その後今に至るまで、イギリス国王とその配偶者は、カトリックでないことが条件となっています。
無論、ジェームズ2世の男系男子の即位を求める人々はこれに反対し、自らをジャコバイト(ジェームズ党、ジェームズのラテン名がジャコブス=ヤコブスであることに由来)と呼び、スチュアート王朝のそもそもの本拠地であるスコットランド、特にハイランド地方をはじめ、カトリック圏であるフランスやアイルランドにも拠点を置くようになります。イングランドにも、ジェームズ2世を支持する声はあったようです。
この辺りは、江戸幕府を開いた徳川家と、豊臣家の確執に多少似たものがあります。ただし大坂の陣は、確かに豊臣家が資金援助をし、豊臣家のために牢人たちに戦わせた側面はありますが、その後の慶安の変に至るまでは、改易によって巷にあふれた牢人たちの、幕府への政策に対する異議申し立てと化して行きます。
一方ジャコバイトの場合、ジェームズ2世自ら軍を指揮したウィリマイト戦争の後、カトリックは公職から追放され、アイルランドも少数のプロテスタントが実権を握ります。その後国王暗殺未遂が起き、そしてハノーファー朝成立により、抵抗運動は激しくなります。
このハノーファー朝は、アン女王崩御によりスチュアート王朝が断絶したため、イギリス(イングランドとスコットランドは同君連合であったが、1707年に合同法により、連合王国として成立)王室と血縁関係にあった、ハノーファー選帝侯がジョージ1世として即位したことにより始まりました。しかしジェームズ2世の直系を支持するジャコバイトは、これに反対して各地で暴動を起こし、また要人の失脚に関与するようになります。
無論政府もジャコバイト、ひいてはカトリックを弾圧しました。そして1745年、ジェームズ2世の孫、ジェームズ老僭王の子であるチャールズ、所謂ボニー・プリンスを擁したジャコバイトは、最後の戦いに挑むことになります。ハイランドの氏族(クラン)たちは政府軍を相手に戦うものの、翌1746年のカロデンの戦いで敗北し、その後ジャコバイトは勢いを失くして行きます。
その後スコットランドのクランは解体させられ、チャールズもフランスへ逃げます。一方ホイッグ党がトーリー党をジャコバイト呼ばわりし、政敵を失脚させたりもしています。当時は名誉革命体制もさほど盤石ではなかったのですが、イングランドではカトリックの君主を拒否し続けたことが、ジャコバイトの君主がついに王位を奪還できなかった、最大の理由といえそうです。
この17世紀から18世紀にかけてのイングランド→イギリスと、牢人たちが蜂起した17世紀前半の日本に共通するのは、半世紀ほど経って終息したこと、そしてカトリックの追放です。日本の場合、厳密にはカトリックでなくキリスト教全般なので、イングランドやオランダの布教も禁じました。またイングランドでは、正式に聖公会が国教会と定められて、カトリックにとっては不遇の時代が訪れ、ヴィクトリア朝まで続きます。
またそれぞれがキリスト教を禁じた、カトリックを追放したその背景には、新時代の到来があります。日本は江戸時代、イングランドでは議会政治の始まりとなります。そしてイングランドはこの時期大同盟戦争に参戦し、ヨーロッパ大陸諸国を相手に、世界を席巻する足掛かりを作ることになります。日本ではそれに類するものはなく、むしろこのヨーロッパの世界席巻から、国を守ることに専念したといえます。
ところでジャコバイト達がシンボルにした、ジャコバイト・ローズという、白い八重咲きのバラがあります。これは正式にはアルバ・マキシマと呼ばれ、バラ戦争の時には、ヨーク家のシンボルとなっています。
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