『真田丸』第44回「築城」では、大坂城の厨で信繫が又兵衛に、出城を作る役目を自分に譲ってほしいと頼みます。華々しく暴れて潔く散りたいと考えている又兵衛とは異なり、信繫にはこの出城で勝つためのノウハウがありました。それは以下のようなものでした。
まず、出城の前に空堀を掘る。敵は出城をめがけて一気に押し寄せる。 そこに逆茂木と乱杭を配しておく。そこで押し寄せた兵は身動きが取れなくなる。 また脇道を作る。これは誘い道で、出城への近道になるため、そこにたどり着く敵も多い。敵はまずここに来るから、鉄砲狭間から一斉射撃する。 逆茂木と乱杭の溝の外にも溝を設ける。そこから敵がよじ上って来る時に、一旦身を起こす。そこを狙う。射撃は二段構えで行う。 これによって敵の士気を喪失させ、虎口より飛び出し、蹴散らす。 何だか昌幸が考えそうな方法ですが、やはり安房守の軍略に倣ったものでした。ところでここに登場する逆茂木、鹿柴(ろくさい)とも言いますが、穴の中などに先のとがった木や竹を立てて、相手の動きを封じるためのものです。乱杭も似ていますが、これは杭を打ち込んだもので、いずれも相手の進軍を妨げる意味では効果的でした。塹壕を掘る時も、逆茂木でバリケードを築く方法はよく採られていたようです。この真田丸の図面が、こちらの画像です。(真田丸公式サイトより)
それから、この後で馬上筒が登場するようです。(実戦に使われるかどうかは不明)これは所謂ホイールロック式の銃で、銃に取り付けられたホイールを回し、それに火打石を擦り付けて発火させるものですが、高価で、しかも故障しやすかったことから、ほどなくしてフリントロック式に移行しています。
またこの当時は火縄銃ということもあり、装填に時間がかかることを考えると、二段構えにならざるを得なかったと考えられます。18世紀のヨーロッパの植民地戦争などでも、まだ先込銃であったことから、この手の射撃は行われていました。ケベック陥落の際も、三段構えが採られています。
銃弾を後装する、所謂元込銃は17世紀ごろには存在したといわれますが、一般的になったのは南北戦争時のようです。この時、『八重の桜』で覚馬が長崎で購入した、スペンサー銃が開発されています。
『八重の桜』では八重の夫の尚之助が、この後装式の銃を、弾込めをしている姿勢が低いため、敵に気づかれにくいと話すシーンがあります。またこの中で「関ヶ原の頃の火薬」という言葉が出て来ますが、これは精錬度が低く、煙が多い火薬のことです。実際関ヶ原の頃は、火薬の精錬技術レベルは、後世に比べるとまだまだ低いものであったのでしょう。
それから「真田丸と天地人の比較」ですが、上杉主従だけ先にするべきかと考えてもいます。元々、上杉景勝が大坂に布陣したのは冬の陣で、夏の陣は京の警備に当たっていたようですが、『天地人』では夏の陣に参戦し、しかも千姫を救ったなどという設定になっています。ちなみに『天地人』では、冬の陣そのものは描かれているものの、冬の陣で上杉主従が戦う様子は、確か描かれていません。
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