畿内で幕府方が圧倒的に不利になり、隠岐の後醍醐天皇のもとにもその知らせが届きます。そしてついに新田義貞と足利高氏も、後醍醐天皇側に付き、幕府に対して反旗を翻すようになります。
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隠岐島に配流となっていた後醍醐天皇のもとへ、畿内の情報が届けられ、後醍醐天皇は臣下の千種忠顕に綸旨を認めさせて、各地に届けさせる。一方で鎌倉では、先帝こそ悪の根源であるとし、討手を差し向けため、後醍醐天皇と側近は密かに隠岐島を抜け出し、伯耆の名和長年のもとに身を寄せた。
名和長年は兵を率いて、船上山で討手を迎え撃つ。この時名和軍は150騎ほどであったものの、近隣諸国の部族の旗を偽造し、味方が押し寄せたように見せかけて、敵を欺く。また実態を悟られないよう、木陰から敵に向けて矢を射かけ、寄せ手の大将であった佐々木弾正左衛門は、それがもとで戦死する。
これによって佐々木弾正左衛門の軍は退き、またもう一つの敵である隠岐判官も、雷雨に足がすくみ、そこへ名和軍が猛攻をかけて勝利を納める。この知らせに、各地から援軍が押し掛けて来た。また今日では六波羅軍と赤松軍が戦闘を続けており、その他の関東勢はなかなか陥落しない千早城に手こずっていた。
しかも関東勢は、楠正成に味方する野武士たちに補給路を断たれ、兵糧が尽きかける有様で、退却を始めた兵たちはその野武士たちに命を狙われたり、命は助かっても、鎧や衣類を剥ぎ取られる者もいた。その関東勢の寄せ手の一員であった新田義貞は、鎌倉幕府の滅亡を確信し、後醍醐天皇に味方することを決める。
それには勅命が必要であった。義貞は家臣の船田義昌から、近隣の山中に大塔宮が潜んでいることを知り、令旨を受けて来るように命じる。やがて義昌は綸旨を持ち帰り、意を決した義貞は、そのまま領国へ引き上げてしまった。また他の関東勢も様々な理由をつけ、千早城を離れて行った。
無論鎌倉でもこれらの情報を受け取っており、さらに名越高家と足利高氏を将として、大軍を伯耆へ派遣することを決める。しかし高氏は、源氏である自分が北条氏に命じられることを快く思わず、弟の直義と相談し、一応は京に上るものの、その後伯耆へ密使を立てる。
高氏は後醍醐天皇から朝敵征伐の命を受ける。その一方で名越らと軍議を重ね、高氏は山陰道、高家は山陽道を経由して伯耆に入ることになるが、その途中で赤松円心の軍が名越を迎え撃つ。赤松は総崩れになったかに見えたが、名越を討ち取り、片や高氏はそのまま領地のある丹波に入り、そこに置いた本陣には、諸国からの武士が馳せ参じた。
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後醍醐天皇の隠岐脱出に加えて、いよいよ新田義貞、足利高氏の登場です。これは鎌倉幕府の消滅が近いことを意味し、新田義貞が剣を稲村ケ崎近辺で海に投じることになります。しかし幕府が滅んだら滅んだで、今度はまた新たな困難が待ち受けることになります。
大河ドラマの『太平記』では、千早城にましらの石がいて、楠軍の一員として加わっていました。そして高氏の方はといえば、妻子を鎌倉に留め置いたまま、京へ向けて進軍することになります。大河ドラマの方も、そろそろまたアップを考えています。
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