先日投稿分の続きです。引き続き小松江里子氏のコメント関連です。
「のし上がっていくために策略を重ね、人を裏切ったり欺いたり。肉親同士が争うことさえあった乱世にあって、愛という言葉を使うなんて。いったいどんな生き方をした人なのだろう。今までにない戦国武将としてその一生を描いてみたいと、興味がふくらんでいったんです」
よくスイーツ大河という言葉が使われることがあります。この『天地人』とか『江』、『花燃ゆ』などがその代表格ですが、彼女のこの言葉によって、『天地人』のスイーツ大河化が決定づけられたと言っていいでしょう。戦闘否定、策略否定なのですから、戦国大河としての面白味は当然かなり失われます-逆に戦闘と策略、あるいはそのどちらかがあると、戦国大河の旨味は飛躍的に増します。そういった面白い要因を悉く断ち切って、無理やり「愛」という抽象概念を入れてもうまく行かないでしょう。それも大河や時代劇を書き慣れている脚本家なら、また違ったのでしょうが。
そもそも「のし上がって行くために」策略を重ねるというのは正しくありません。策略はこの時代生き延びるため、攻められないためのものでもあります。裏切り、欺きまたしかりです。この言葉、真田昌幸が見たら嘆くでしょうね。無論直江兼続も、越後一揆しかり慶長出羽合戦しかり、結構策を弄していますが、ただこのドラマではそれが登場しないわけです。ゆえに、『真田丸』のスピンオフで慶長出羽合戦で「策を弄する」兼続が見たいなと思うわけです。
さらに先日の分で触れていますが、女性を動かして行くというのが、ほぼ朝ドラテイストになってしまっています。だから兼続が、京の上杉屋敷で子供のおむつを替えたり、夫婦の会話シーンが長々と続いたりしていて、しかも『花燃ゆ』同様、女性パートを入れることによって、肝心の史実に基づいたシーンの流れが止まったりしているわけですが、そういうのを大河の視聴者は本当に見たがっているのでしょうか。
そして、小松氏はこうも語っています。
「私の仕事は感動をつくり出すことだと思います。それは事象を描くだけではつくれません。事象の裏にある人間ドラマを描かなければ」
事象を描くだけではというより、事象を描かずしてフィクションの人間ドラマばかり描いているから、千利休の娘から福島正則が投げ飛ばされるような、おかしなシーンが登場しているともいえます。まず歴史的事実を描いて、その間をフィクションで埋めて行くべきでしょう。また締めの言葉として、毎回カタルシスを感じてもらえたらとあるのですが、正直カタルシスよりも疑問を感じる方が多いドラマだといえます。
あとチーフプロデューサーの内藤慎介氏、チーフディレクターの片岡敬司氏も、インタビューで異口同音に「愛」を口にしています。しかし内藤氏はLOVEの意味、片岡氏は仁愛の意味と、解釈が異なっており、統一されてはいなかったようです。また内藤氏の言葉にある「これまでとは違ったイメージの大河ドラマ」、確かに違ってはいましたが、ただしよくない意味での「違った」と言うべきでしょう。また片岡氏のインタビューの最後の方に「兼続からのメッセージ」としてこうありますが、
たとえ天下が取れなくても、一番になれなくても、人は「愛」を貫けば誰よりも格好良く生きられるのだ!
ちょっと引きますね…。この言葉、前半はまだいいのですが、その落としどころが「愛」というのがなあ…ちなみに『真田丸』の堺雅人さんのコメントに、敗者を描くドラマとして「決して敗者を美化するのではなく、負けた姿をそのまま描くことで訴えかけるものもあるはず」(産経新聞出版 真田丸完全読本)とありますが、実際、そちらの方がはるかに受け入れやすいです。この『天地人』スタッフ両氏のコメントも突っ込みどころが多いので、今後何かで引用する可能性もあります。
(この項終わり)
スポンサーサイト