長谷堂城の戦い関連、『真田丸』では登場しませんでしたので、『天地人』の分だけざっと書き出しておきます。前にアップしたのといくらか重複しますので、悪しからずご了承ください。
景勝は、西へと撤退する徳川軍を「義」のために追うなと命じる。兼続は異を唱えるが、ならば自分を斬ってからにしろと、景勝は太刀を差し出す。兼続はそれで空を斬り、主君にそれを返す。そんな折、最上の動きが怪しくなり、兼続は軍を率いて山形へと進む。時まさに慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いのその日だった。一方関ヶ原では、どちらに付くか決めかねて動こうとしない小早川秀秋に、三成が直談判に行く。一方こちらも業を煮やした家康は、小早川陣に鉄砲をぶち込み、秀秋は慌てて大谷刑部を攻撃する。あっけないほどの短時間で決着がついてこの戦いは、徳川方の勝利に終わり、三成は敗走中に負傷して、どこからともなく現れた初音に救われる。そして兼続は、途中で関ヶ原の情報を得て、最上攻めを断念して撤退する。しかしやはり関ヶ原の結果を受けて、勢いづいた最上と伊達は、兼続たちに猛攻を加え、しんがりを務めた兼続は、ほうほうのていで会津に戻る。 この中で、「義」のため云々、そして関ヶ原と両立させたためどっちつかずになったというのは、「
真田丸と天地人の関ヶ原比較 」で触れています。また自分を斬ってから行けというセリフに関しても、「
真田丸あれこれ その41 」で、こちらは『真田丸』風アレンジで立場を逆転させています。
そして実際にはなかっただろうといわれる間鉄砲が、ここでは登場します。また長谷堂城の戦いも、兼続が関ヶ原の結果を知ったのが、早すぎるように思えます。最上や伊達の気配を察して、兼続が撤退するのであればまだわかりますが。これに関しては、「北の関ヶ原」関連記事で述べています。また、最上や伊達も、はっきりした形で結果を知っていたかどうかは不明です。
それにしても『天地人』の戦闘シーンですが、兜を着けているのに髪を下ろしていません。これは関ヶ原での小早川秀秋です。
つまり、髷をほどかないまま兜を着けていることになりますが、この時代それはまずないでしょう。一方『真田丸』第10回「妙手」の、虚空蔵山城での戦芝居、直江兼続と対峙する真田信幸の後姿ですが、きちんと髪を下ろしています。
どこにでも直垂姿で来る上杉主従、あるいは公の場で家康に羽織姿で会う上杉景勝も妙なものですが、これもかなりおかしな感じがします。
それから『真田丸』の関ヶ原のシーンへの反応は人さまざまのようですが、私はやはり、真田家から見ればああいう情報の伝わり方だったでしょうし、むしろ上田合戦だけに絞って締まった印象があったと思います。小早川秀秋の口から語られるのかなとも思いましたが、むしろこれは今後、実際に参戦した、そして小早川秀秋の幻に登場した毛利勝永、明石全登、そして宇喜多秀家ら、大坂の陣に登場する人物から信繁が話を聞き、それを自分の中で再構築することになりそうです。逆に、秀秋の口から語らせるより、その方がいいかもしれません。
無論私が長谷堂城の戦いを楽しみにしていたように、関ヶ原を楽しみにしていた人も多いかと思われます。ただ『真田丸』は最初から多少ひねった部分があるので、関ヶ原も当たり前には描かれないだろうなとは思っていました。私が長谷堂城にこだわるのは、真田が味方した上杉に関わる戦いであり、可能であれば最上義光登場を期待していたからです。しかしやはりそこまでは行きませんでした。ならばいよいよスピンオフ、あるいは上杉、伊達、最上プロパー大河を希望です。あるいは、後に上杉主従もしくは直江兼続の口から語られる可能性もあります。兼続が語る長谷堂城の戦いというのもよさそうです。
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この度長谷堂城の戦いを題材にした記事を書かせていただいたのですが、その情報収集の際にaKさんのこちらの記事を読ませていただきました。
『天地人』と『真田丸』の比較、面白いですね!
大河を多く観ていると、同じ出来事の描写が主人公の視点や脚本によって随分違うものだな、とは感じますが、腰を据えての比較をやるという観点はありませんでした。
それと、誠に勝手ながら自ブログにてaKさんのこちらの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!