さてあれこれ第一弾(最近この第一弾、第二弾のスタイルですね)ですが、その前にもう一つお詫びです。先日の「北の関ヶ原5」、真田昌幸のセリフについて「あらすじで述べる」としていましたが、「あれこれ」の誤りです。重ね重ねすみません。
さてそのセリフ、つまり
「上杉と同盟する」 ですが、同じころ上杉家中の直江兼続の軍勢は、最上を鎮圧しようとして逆に攻め込まれ、撤退を余儀なくされていました。それでなくても伊達と最上を監視することで、手いっぱいの状態だったわけですから、「同盟」とは、かなり厳しかったでしょうし、仮にお屋形様が許しても兼続は許さなかったと思われます。
もし上杉も、徳川の後を追って関東に攻め入ったりしていたら、恐らく取り潰されていた可能性があります。家康ならばそのくらい平気でやるでしょう。また三成が家康を攻めるその理由として、家康の「私利私欲」を挙げていましたが、しかし秀吉だって三法師を担いで、結構私利私欲まみれではありました。三成は、秀吉が権力を握った時の柴田勝家に、若干ダブるところがあります。そもそも老衆が万が一掟を破った時の、罰則法がなかったというのが、五大老五奉行制の欠点ではあったわけです(三中老が存在したという説もありますが)。それも刑部のいうように、他の老衆をうまく抱き込めばよかったのですが、三成はその才覚を天性欠いていたようにも見えます。
さて本題です。昌幸はなぜ自分たちは秀忠に勝ったのに、降伏しなければならないのかと不満げです。前回のあれこれ(41)で、私はこう書いていますが
「同じ合戦に加わっているように見えながら、実はこの人物だけ違う次元の戦をしていたようにも思えます。」 正にこれだったかとも思われます。かつての領地を巡っての一対一の争いなら、それでも通じたでしょう。しかし上田合戦は、関ヶ原の戦いの一部でしかなく、総大将が負けた以上、上田で勝っても負けを受け入れなければならなかったわけです。これを不服として、昌幸は徳川の兵たちの陣を攻めますが、これがかえってよからぬ結果を招いたふしもあります。
結局上田城は明け渡され、昌幸と信繁は高野山、正確にはその麓の九度山に流罪となるわけですが、なぜ打ち首にすることもできたのに、しなかったのか。それを昌幸に語る時の家康の言葉がまたすさまじい。
「この生き地獄、たっぷりと味わうがよい」
どうも家康は、信幸と忠勝が命乞いに来る前から、昌幸父子、特に自分が散々煮え湯を飲まされた昌幸を、一気に成敗するのではなく、真綿で首を絞めるようにしたかったのではないか、そういう印象があります。それも戦に出る機会を悉く奪うという、昌幸に取っては正に、両手両足をもがれるに等しい物でした。
そもそも家康と豊臣方は、それ以前から互いに牽制し合うところがあり、その一例が、上杉景勝会津転封の際の、庄内を巡る豊臣-上杉と、徳川-最上の確執です。慶長出羽合戦も、そして関ヶ原後の改易と処罰も、多分にこういったものを引きずっているといえます。かなり非道にも取れますが、逆にいえば、その当時、その程度のことができないと天下は取れないということでしょう。実際家康は江戸幕府を創設するに当たり、豊臣の失敗を繰り返さないようにしたわけで、その意味で秀吉は家康の反面教師であったといえます。
そして信幸は「幸」の字を「之」に変えます。読みは変えなかったというのは、家康へのささやかな抵抗なのでしょう。この当時、通字(継承される名前の一文字)を捨てるというのは大変なことであり、だからこそ家康も、信幸にそう命じたと察せられます。
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