9月18日放送の『真田丸』では、やはりというか慶長出羽合戦関連のシーンは登場しませんでした。わずかに、昌幸のセリフのごく一部が、上杉絡みではありましたが…しかしこの期に及んでなお、上杉と同盟して江戸を攻めることを考えていたのでしょうか。
そのセリフについては、また「あれこれ」で詳しく触れるとして。当時の上杉は、石田方有利と見て、最上に圧力をかけたものの、最上の攻撃に遭って退散せざるを得なくなり、しかも兼続がこの撤退でしんがりを務めたこと、情報元の石田方が壊滅状態になったことなどから、上杉方の現状把握や対応は、後手に回ることになります。この時の撤退はかなりすばやく、またかなりの激戦でもありました。
前回でも触れましたが、伊達政宗は徳川優勢と見ており、そのうち長谷堂に攻め込んだ兼続の軍が引き上げるであろうこと、自分も上杉領に攻め込む予定であること、そして、無論そのことは内密にしておくように、最上へ派遣した留守政景に伝えています。なぜ上杉領(伊達郡、信夫郡)を攻撃しようとしたのか、それは上杉の背後を襲うことで撤退を促し、上杉を追い払ったという実績を作るためだったと考えられています。
しかし政宗は、10月1日に予定していた伊達・信夫両郡への攻撃を、9月27日になって延期します。これはその数日前に、伊達(留守政景)の軍が、上杉方の兵を討ったということから、景勝自ら山形に出馬する可能性も出て来たためで、成り行きを見て判断するというものでした。政宗自身は、上杉攻撃を自重するように家康から言われており、景勝が攻め込んだため、やむなく兵を動かしたという方法を採ることにしたと思われます。
しかし兼続の方は、9月の下旬になっても、上方(石田方)の方はどうということはないという書状を、上杉家臣である岩井信能や清野長範に送っており、清野宛ての文には、上杉につきながら最上に寝返った農民の籠る城に、放火予定であるということも書かれています。10月1日になって兼続は、山形攻めのため菅沢山に敷いていた陣を撤収します。これは、関ヶ原における石田方の敗戦を聞いたためといわれていますが、その時点ではまだ、関ヶ原の結果を知らなかったという説もあります。
一方で政宗は、宇都宮の結城秀勝に書状を送って、南北から上杉を挟み撃ちにするよう依頼し、また本来石田方であった佐竹氏も、伊達にすり寄る姿勢を見せるようになりました。しかし肝心の上杉に情報が届くのは遅かったとなれば、確たる情報もないまま、上杉方は伊達や最上、ひいては庄内に攻め込んだ村上、堀といった敵をも相手にしなければならなかったわけです。関ヶ原のあまりにも早い終結は、北日本における戦いをも左右しました。
しかもこの慶長出羽合戦は翌年にまで持ち越され、上杉主従が伏見で家康に目通りするのは、それが終結した後のことです。次は、その後の福島での合戦について書く予定です。
(資料:直江兼続と関ヶ原)
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