では、その40で触れていないことあれこれです。
稲の行動
上田合戦
石田方はなぜ負けたか
陣羽織
妄想「上杉主従のやり取り」
尤も、石田方の敗因と上杉主従は、本編から外れたおまけのようなものですが。
まず稲が、舅と義弟の沼田城入りを拒む有名なシーンですが、これは実は、大坂から逃げて来たというのが大きな伏線になっているようです。再び乱世に戻ろうかという時期に、供を連れているとはいえ、女子供の旅というのはそう生易しいことではありません。それを敢行する辺り、この女性はなかなか気丈であるわけです。
そもそも結婚した当初から、間者としての役割を期待されていたとはいえ、なかなか信幸に馴染もうとしなかった点から見ても、これは彼女の元々の性格でしょう。ちょっとおどおどした感じのおこうさんとは対照的です。無論おこうさんは真田の娘であり、昌幸は叔父、信繫は従弟にあたるという意味で、接し方が違うのも当然ではありますが。しかし仙千代と百助が実に可愛らしい。
そして上田合戦ですが、父上は戦をしている時は、正に本領発揮、実に活き活きとしています。乱世を待ち望むのもむべなるかなです。そして内記、作兵衛に加えて、松の夫の小山田茂誠と、信幸とその家臣を除く真田の一門が顔をそろえています。これだけを見ると、あの天正壬午の変の頃の真田家を思い出しますが、20年足らずで時勢は大きく変わってしまいました。
その時勢にどうやって乗るかをも見定めたうえでの、犬伏の決断だったのですが、甲斐信濃を取り戻して「よっしゃー」と叫ぶ辺り、徳川でも豊臣でもなく、やはり武田の家臣なのであり、その意味で同じ合戦に加わっているように見えながら、実はこの人物だけ違う次元の戦をしていたようにも思えます。
そして石田&大谷陣。三成にあれこれ忠告する刑部殿の衰えが痛々しい。いくら輿を使ったとはいえ、これでどうやって戦場まで出るのが危ぶまれるほどです。ところで石田軍の方は、総大将は毛利輝元でしたが、実はこの人は、徳川方と内通していて、起請文まで出していたという説もあります。
また小早川秀秋は、はじめから徳川についており、家康が催促した所謂「間鉄砲」はなかったこと、そして「空弁当」の吉川広家も、実は輝元の本心を知っていたゆえであったこと、何よりも小早川や吉川を含めた毛利家そのものが意思統一できず、従って石田三成の有力な味方とはなり得なかったというのも、石田方が崩れた一因と見てよさそうです。結局毛利は、責任を安国寺恵瓊に押し付ける格好になりました。
それから合戦回にはつきものの、武将たちの陣羽織ですが、地模様入りの絹の陣羽織が多い中で、やはり真田昌幸の革の陣羽織は目立ちますし、如何にも様になりますね。そして信幸の陣羽織ですが、これは絹のような光沢が無く、毛羽立ったように見えるので、あるいはビロードかとも思われます。しかしこの時代、ビロードはかなり贅沢品だったでしょう。また上杉のお屋形様が、謙信公のような南蛮風の格好をしていないのにも好感が持てます。
ところで先日投稿の「北の関ヶ原4」で、『天地人』の、景勝が徳川を追うのを止めるシーンは、実際にこんな感じだったらいいかなと想像(妄想)してみます。なおキャストは『真田丸』のそれに置き換えてください。
景勝「やはり秀忠を討つ。兵を出そう」
兼続「お待ちを。会津の守りが手薄になれば、最上伊達が攻め込むのは自明の理。それはなりませぬ」
景勝「しかし治部とも源次郎とも約束したこと、無下に見過ごすわけにも行かぬ」
兼続「では、兵をお出しになる前に、一つお願いがございます。この山城守を、斬ってからになさいませ」
景勝「そなたを…斬るとな」
兼続「左様にございます。それがしは幼少の頃より、お屋形様にお仕えして来た身。天下の帰趨を見定められぬのは残念ではありますが、今、お屋形様にこの場で斬られようとも、思い残すことはございませぬ」
景勝「そなたは我が家臣であると同時に、長年の友にて、この上杉の執政。それはできぬ…できぬ」
兼続「早う、この首をお討ち取りくださいませ」
景勝「…わかった。兵は出さぬ。如何に徳川の行いが非道であろうとも、この景勝、そなたを失うては太刀打ちはできぬ。そなたは儂の右腕、あるいはそれ以上のものじゃ」
兼続「痛み入りまする」
景勝「治部、源次郎、済まぬ…」
慶長出羽合戦、長谷堂城の戦いを中心にした、3回シリーズくらいのスピンオフを制作してほしいものです。無論、上杉の会津移封以降の様々な出来事を、できるだけディープにしかもひねって描いてほしい。三谷さん、如何でしょうか。
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