いよいよ関ヶ原本戦間近の慶長5年8月から9月にかけて、上杉景勝は最上と伊達への対策に追われていました。8月25日、景勝は豊臣方の三奉行(前田、長束、増田)と二大老(毛利、宇喜多)に対して、関東に出兵したいが、とにかく最上と伊達を抑えなければならないといった意味の書状を送っています。またこの書状に、佐竹と相談するという記述があることから、佐竹義宣とかなり連絡を取っていることがわかります。
この時期、上杉側は佐竹のみならず、秋田や由利、仙北衆、南部、越後の村上や溝口に内応工作をしていました。しかも村上や溝口、そしてやはり越後の堀相手には一揆をしかけることまでやっています。そしてその一方で、最上や伊達には降伏勧告もしています。しかし、なかなか関東出兵までには至りませんでした。また毛利輝元や豊臣三奉行、そして石田三成から真田昌幸宛てに送られた書状には、景勝との協力体制が指示されていますが、三成から景勝宛ての書状は見つかっていません。
もちろん一揆といっても闇雲に行うのではなく、関東出兵に合わせて行うように示し合わされています。前回の『真田丸』ではありませんが、上杉主従も戦が長丁場になることを見込んで、こういう伏線を張っていたようです。そして出兵の時期は、最上と伊達に完全ににらみを利かせることができた、正にその時になるはずでした。しかも出兵には伊達政宗、あるいはその家臣を参戦させる予定だったようです。
かなり高圧的ともいえますが、景勝が会津の領主として、いわば東北地方全般の動きに目を光らさざるを得ない様子も窺えます。しかも伊達政宗は、豊臣恩顧の大名の中でもきっての問題児です。尤も真田昌幸宛て三奉行の書状によれば、政宗や最上義光の場合、妻子が上方に人質として滞在しており、しかも家老までいるのですから、後のことはどうにかなると考えたのでしょう。両者との和睦を考える一方で、いざという時にはそれぞれの所領へ出陣、それも圧力をかけて降伏させることも視野に入れていました。
そして関ヶ原本戦の当日、上杉軍は長谷堂へと攻め込みますが、既にその前に、上杉方の江口五兵衛によって畑谷城が攻撃され、撫切が行われていました。しかしその15日、義光は伊達に援軍を求め、政宗は叔父の留守政景を派遣します。この頃から、伊達の動きが怪しくなって来ていたのには、16日に徳川方から、岐阜城攻めの書状が届いていたことによります。これで政宗は徳川方に勝機ありと見たわけです。しかし兼続の方は甘糟景継への書状の中で、石田軍の優勢さについて触れており、これがいわば誤算となりました。ちなみに『独眼竜政宗』では、政宗が長谷堂に赴いたことになっていますが、これは誤りといっていいでしょう。またこのドラマでは、上杉景勝は登場しません。
それから『天地人』の「義のために」徳川を追いかけない云々、前にも触れていますが、ここで徳川を追うなら自分を斬れと景勝が兼続に命じるシーンがあります。しかしこれはむしろ逆で、義のために徳川を討つという景勝を、ならば自分を斬ってからと兼続が諌める、つまり如何に最上と伊達が脅威であるかを、身を持って主君に教えるという方が、ドラマとしては面白い展開ではないかと思えます。
(資料:直江兼続と関ヶ原)
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