では、『太平記』コミック版第五章に行きます。後醍醐天皇の隠岐配流の一方で、大塔宮護良親王、そして楠正成が動き始めます。
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後醍醐天皇が隠岐に流された後、大塔宮は山伏に変装して諸国を巡り、討幕運動を進めていた。しかし幕府の追及の手は厳しく、ついに逃れらなくなったところへ、紀伊の野長瀬六郎が現れる。その他にも、大和の辺りには大塔宮に味方する土豪たちが増えて行った。そして大塔宮は、吉野を根拠地とし、諸国の武士に討幕の令旨を送付する。
その頃、赤坂城の落城から行方が知れなくなっていた楠正成が、忽然と姿を現した。元弘二年(1332)四月三日のことである。その頃赤坂城の主は湯浅孫六となっていた。孫六は突如現れた楠軍にあわてふためき、使いを六波羅に送る一方で、合戦に備えて兵糧を運び込ませた。しかし、夜間兵糧を密かに運ぶ人夫たちは楠方に待ち伏せされ、兵糧を奪い取られてしまう。
彼らは命を助けられたものの、楠方に加勢することになった。すなわち、兵糧を運ぶ兵たちが楠の軍勢に追われているようにして、赤坂城に近づき、孫六の隙をついて、赤坂城を戦わずして手に入れた。こうして楠正成は、和泉、河内の兵を従えて、五月十七日には住吉、天王寺付近に現れ、六波羅の幕府兵と対峙した。六波羅勢は五月二十日に京を発ち、二十一日に決戦の時を迎えた。
六波羅勢は相手の軍備のみすぼらしさを笑い、楽勝と思っていたところへ、左右から敵の挟み撃ちにあう。これを聞いた北条高時は、宇都宮治部大輔(公綱)を京へ派遣した。公綱は七月十九日に天王寺へ向かい、これを聞きつけた楠は、ある策を講じる。公綱軍が攻めて来た時、楠は既にその場におらず、退却したものと思われていた。
しかし夜になり、天王寺周辺の生駒山、秋篠の里から住吉難波の里に至るまで、楠軍の焚く篝火で埋め尽くされた。しかし一向に攻めて来ず、この持久戦に疲れた公綱軍は、ひとまず京へ引き上げることにした。すると、それを狙ったかのように楠軍が天王寺入りし、正成は「天王寺の妖霊星」として戻って来た。そしてその後、金剛山に大拠点を築くことになる。
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楠正成が再登場します。鎌倉方が送り出した宇都宮公綱とは、一戦も交えずして天王寺に舞い戻り、やがて赤坂城に代わる拠点を築きます。ここには支城が十七もあり、その一つが千早城で、ここでの戦いにおいて、またも正成の策が冴えわたることになります。
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