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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『光る君へ』第17回「うつろい」あらすじと感想-2

第17回後半部分です。


正暦6(995)年正月、道隆は疫病で傾く世の流れを止めようと、帝に改元を進言する。道隆が考えた新元号は長徳だった。そして2月、陣定で藤原実資は「チョートク、チョートク」とつぶやき、平惟仲はどなたがお決めになったのかと言う。そこへ源重信が、関白に決まっておろうと口を挟む。さらに藤原顕光はチョートクの何が悪いのかと実資に尋ねる。実資はなおもチョートクとつぶやいた後、チョードクと口にする。

実資のそばにいた道綱は、顕光にチョードク、長い毒ですよと説明し、惟仲は、疫病は長引くでありましょうと補足する。実資は、帝が道隆の進言を受け入れるのが不服そうで、まだお若いのに心配だと明言する。また顕光は、道隆は最早物事の是非の見分けもつかないのかと言い、重信は御病もこの改元で悪化してしまうやもと言う。その会話を帝は耳にしていた。それとも知らず実資は帝は未熟だと言い、俊賢は我々でお支えしましょうと実資に忠告する。

しかしいくらお支えしても、断をくだすのは帝である、心配であると繰り返す。長徳という世になればいも多くなろうという言葉を耳にし、帝はその場を去る。そして定子は、父が病に倒れてから1人でいると心細いと帝に洩らし、帝は会いたければ二条第に行ってもいいと定子に告げる。朕がよいと言えばよいと言われた定子は、お上のそばを離れるのは嫌だ、父を見舞う間でも離れるのは嫌であると言う。

兄を呼んで父の様子を訊いてみると言う定子に帝は、定子は朕が守る故好きにいたせと桜のつぼみの枝を渡す。一方詮子は、道長から道隆が、飲水の病であろうと薬師が言っていたと知らされる。詮子はこう口にする。
「浮かれ過ぎたから、罰が当たったのね」
そしてお若い頃は優しかったのにと言い、次の関白は道兼兄上であるべきと道兼に向かって言い放つ。驚く道兼に、それがまっとうな順番だと詮子。

そのために詮子は、道長に道兼を連れて来るように頼んだのだった。詮子はさらにずけずけと、昔から道兼は好きではないが、あの出過ぎ者の伊周に関白になられるのはもっと嫌だと言い、道兼を後押しするつもりだった。女院様にお助けいただく身になろうとは、不思議な気がすると道兼。これで道兼は道長にまた借りを作ったことになった。そして道長は、帝にお話しいただけますねと詮子に依頼するが、詮子は内裏で定子に「首根っこをつかまれている」帝を見たくないと言う。

ならばどのようにしてと尋ねる道長。詮子は他の公卿を取り込むことにする。大納言も中納言も参議も、公卿は皆伊周が嫌いだから、そこへひと押しすればうまく行くと詮子。一方定子は、内々に先例を調べさせたと言って、道隆が存命の内に、伊周に帝から内覧の許可を得るようにと言う。この内覧は帝への奏上、または帝からの宣下の文書に事前に目を通すことができる職で、関白に準ずるものであった。

直近の例は20年前のことであったが、それには構わずやってしまえばいいと定子は言う。道隆からも帝に頼み込ませ、自分からも帝に強くお願いしておくと言う定子に伊周は、男であったら自分などかなわないと言う。あの女院様から我が身を守り、帝をお守りしているうちに強くなったと定子は言い、内覧となれば関白も同然だから、共に力を尽くそうと兄を鼓舞する。

道兼が道隆に火急の用とのことで呼ばれる。道隆は気分が悪そうで、道兼を呼び寄せようとするものの、ついに自分から道兼に近寄り、手探りで道兼の手を握ると、もし自分が倒れても、未だ懐妊せぬ中宮定子、貴子、伊周、隆家をも支えてやってくれと頼む。酷なことをしないでくれ、伊周を、我が家を頼むと懇願する。そして桜が咲く頃、写しを作るまひろをさわが久々に訪れる。

かつての非礼を詫びるさわを、まひろは中に入れる。息災でしたかと尋ねるまひろに、さわは自分は何があっても病にならないが、兄弟を疫病で亡くしたと言う。悔やみを述べるまひろに、あまりに儚く、人に許された年月は短いことを知ったとさわは言い、まひろはたねとその両親がやはり疫病で死んだこと、自分も罹ってしまったことを話す。今生きていることも不思議な気がすると言うまひろの手をさわは取り、再びお目にかかれて本当に嬉しいと口にする。

生きていてくださって本当に嬉しいとさわ。まひろもお目にかかれて嬉しいと答えるが、さわは改めて石山寺からの帰り道のこと、文を突き返したことを詫びる。そしてまひろの文は、すべて書き写して持っていると、さわは文箱から文を取り出す。まひろの文を写すことで、まひろに追いつきたいとさわは思っていたのである。そんなことできっこないのにと言うさわは、私の友はまひろ様だけだ、色んなことがあってそれがよくわかったと打ち明ける。

そして末永く友でいてくれと懇願し、2人は笑顔を見せる。その夜まひろは改めて、自分の文がさわの心に影響を与えたこと、書くことの意味について考えていた。一方道長は、夜空の半月を見ていた。その半月のもと、まひろは何かを書き始めていた。何を書きたいのかはわからないが、筆を執らずにいはいられなかった。

道隆は参内し、病の自分に代わってすべての政務を、内大臣伊周に委ねることの許可を帝に奏上する。要は、伊周への内覧の宣旨を賜りたいということだった。帝はしばらく考えて、後ほど宣旨を下すと答える。しかし道隆は、今お約束いただかねば安んじで養生もできませぬと帝の即断を促し、今ここで宣旨をお下しくだされとまで言う。しかし帝は下がるように命じる。

これについて、蔵人頭はどう思うかと尋ねられ、俊賢は、すぐに関白のお申し出をお受けにならない帝は、まことにご相違名であると答える。無下に断るわけにも行かないが、言いなりになるのもどうかと思うと帝は口にし、伊周を嫌ってはおらぬがまだ若すぎると洩らす。そして道隆は定子と女房達の所へ出向き、皇子を産めと定子に言う。ききょうをはじめ女房達は即座に御簾を下ろす。

驚く定子に、道隆はお前は帝の唯一無二の后、他の姫の入内も拒んでいるのに何をやっているとあからさまに言い、帝はまだお若いと言う定子に、とっくに元服されておる、わしが関白になったのも帝を一人前と認めたからだと不満そうだった。ついに定子はそれなりにつとめている、毎夜のお召しにお応えしていると言うが、足りない足りないと道隆は繰り返し、皇子ができれば、帝は我が一族の真の味方となる、皇子がないゆえ帝のお心が揺れると定子を責める。

道隆は何かに取りつかれたように、皇子を産めと繰り返す。やがて桜が葉桜となり、帝は道隆の病の間に限るという条件付きで、伊周に内覧を許した。そして3月20日、大納言朝光(顕光の弟)が亡くなったことを道綱が話し、もう皆さんご存知ですと道長が答えると、疫病らしいね怖いことだ~と道綱は声を張り上げる。この間の陣定の時は、まだ罹っておらなんだと思いたい、罹ればあっという間らしいと公卿たちは噂し合う。

我らはもう屋敷から出ない方がいいのではという声も出るが、それでは政はできないと実資は言う。そして、疫病が内裏に入り込んだのは関白様の横暴のせいと言い、長徳などという元号にし、息子を内覧に据えた積悪の所業許し難しとも言う。聞こえたら大変だと注意する道綱に、間違ったことは申しておらぬと実資。しかも伊周に明日はないとまで言い切る。

その伊周が陣定に姿を現すが、公卿たちの反応は冷ややかだった。そして最早足取りもおぼつかなくなった道隆は、帝の御前まで進むと勝手に御簾を上げ、伊周を関白にお定めくださいと直訴する。止めようとする俊賢。道隆は伊周を関白にと言うのみで、その場から連れ出される。そして山吹が咲く頃、貴子に看病されながら、道隆はまだ死ねない、伊周はどうしたと言い、貴子は夫の言葉にひとつひとつ答える。

やがて2人はそれぞれが出会った時の話を始める。そして道長は、妻が詠んだこの歌を口にする。
「忘れじの行く末までは難ければ 今日を限りの命ともがな」
あの歌で、貴子を妻にすると決めた道隆。長徳元年4月10日、その道隆は、43歳で世を去った。


違うシーンで似たような描写が繰り返されます、もちろん意図してのことでしょう。
文箱から文書を取り出す定子と、文箱からまひろの文の写しを取り出すさわ
陣定で長徳=長毒と駄洒落めいた?ことを言いたげな実資と、次の陣定で疫病は怖いことだと声を張り上げる道綱
その陣定の話題の疫病と、さわの話題に出て来る疫病
公卿たちの本音の会話を陰で耳にする帝と、伊周が来て今度は本音を隠す公卿たち
チョートクを繰り返す実資とまだ足りない、皇子を産めを繰り返す道隆

さらにその道隆が、最早余命いくばくもないという焦りからか、定子に対しても、およそ関白らしからぬ態度で本音をぶつけるわけですが、定子を訪ねた時は女房達が御簾を下げ、逆に帝に直訴する時は、非礼にも御簾を自分で上げています。その一方でまひろの家では、さわが人に与えられた時間はわずかだといったことを話しています。そして道長のいまわの際の歌、儀同三司母(高階貴子)の「忘れじの…」(小倉百人一首第54番)ですが、父兼家も死の前に、こちらは妾妻の寧子の「嘆きつつ…」を口にしていましたね。

一方で、次の関白の座を巡って、兄弟姉妹が二つに分かれます。道隆の家族と、女院詮子、道兼と道長です。何やら花山院退位の時を思わせます。詮子は定子と伊周をはっきり敵視しており、定子の方は詮子を警戒しています。そして道隆は道兼を呼び、自分の家を、伊周を頼むと情に訴えてもいます。このシーンで思い出すのが、豊臣秀吉に最期が迫り、秀頼のことを気にする描写です。

『真田丸』では秀頼を頼むと言い、『どうする家康』では
「どんな形でもええ、ひでえことだけはのう?しねえでやってくれ」
と、秀吉は家康に哀願しています。しかも道隆も秀吉も関白(秀吉の場合は太閤も経験)という権力者です。まだ若い息子を残して行く不安とも取れますが、ただし道隆の場合は、秀吉ほどの苦労人ではなく、親から譲られた地位に乗っかったところもあり、そのため人心把握の術に疎かったとも取れます。

この道隆の病が重くなり、やがて世を去るまでに桜のつぼみが開き、葉桜になり、そして山吹が咲くようになっていました。山吹は、かつて土御門殿の牛車を飾った花でもありましたが、土御門殿に婿入りした道長の世が来る暗示でもあるのでしょうか。この長徳年間は実資が予言した通り長徳の変が起こり、伊周と隆家は流罪となってしまいます。


飲み物-グラスに入ったビール
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[ 2024/04/30 04:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第17回「うつろい」あらすじと感想-1

第17回前半部分です。


正暦5(994)年。まひろは天然痘が癒え、庭を掃いていた乙丸はその回復を喜ぶ。しかしまひろは、悲田院で気を失う前に、道長の姿を見たような気がしていた。すると乙丸は、為時も言わないことを、自分が言うのはよくないかも知れないと前置きしつつ、悲田院からまひろを連れて帰ったのは道長であること、一晩徹夜で看病をして、翌朝帰ったことを打ち明ける。

まひろは部屋へ戻り、道長が助けてくれて看病してくれたことを心に刻み込む。その道長は兄道隆に、悲田院はもう用をなしておらず、空いている土地に小屋を建てて、患者を収容する必要があると述べていた。それをやらねば疫病はいずれ内裏に及ぶと言う道長に、道隆は絶えず水を口に運びながら、お前と道兼は何のために、悲田院に揃って行ったのかと尋ねる。

都の様子を知らなければ、疫病への策は講じられないと思ったと道長は答えるが、これまで疫病が内裏に及んだことはない、放っておけばいずれ収まると道隆は取りつく島もなかった。救い小屋など必要ない、そのようなゆとりは朝廷にもなく、火災に遭った弘徽殿の修理だけでも莫大な費用がかかると言いつつ、道隆は水差しの水をすべて飲み干し、代わりの水を持てと命じる。そんな道隆に道長は、放っておけば都の民は死に絶え、その累が自分たちにも及ぶと言う。

しかし道隆は大げさなと取り合わず、小屋を作りたいなら自分で費用を持て、朝廷は関わらぬと言いつつ、立ったまま水を飲み続けていた。また道隆は、道長と道兼が手を組むのは、自分の追い落としのためかと不審がっていたが、追い落としたければ、このような話はしないと声を荒げる道長。しかし道隆は、お前になくても道兼にあるやも知れぬ、疫病の民を思うなどあいつは考えないと言い放つ。

一方明子は男児を産んでいた、源俊賢はその子をあやしながら、次は娘を産まねばのうと妹に言う。しかし最近道長は明子の許を訪れていなかった。お忙しいのであろうと俊賢は言い、お見えになったらせいぜい励んで娘を産み、入内させるようにと言う。

兄上は、そういうことしかお考えにならないと明子。男の人生とはそういうものだと俊賢は答え、もし次の関白が道兼なら、道長は左大臣か、まあ右大臣は堅いと話し始める。偉くなれば妬む人も出て心配と言う明子に、すっかり心を持って行かれておるなと俊賢。兄上がお望みになったことだと明子。

そして土御門殿では、倫子が小屋の建設に、自分の財産も使うようにと道長に勧める。殿を信じている、思いのままに政をなさいませとの倫子の言葉に、道長はすまないと詫びて、ここまで太っ腹とは思わなかったと言い、倫子はおほほと笑う。この当時の夫婦は別財産だったが、倫子の財産の方が多かった。

そして倫子は月見をする道長の酌をしながら、悲田院に行った際にどちらに泊まったのかと尋ねる。高松殿ではありませんよねと訊かれ、道長は内裏に戻って朝まで仕事をしていたと答える。倫子は納得したようだった。そして道長はまひろの看病をしたことを思い出し、よくなったであろうかと心の内で言う。

そのまひろは再び机に向かい、書物を広げていた。そのまひろに為時は、大納言様(道長)とお前の仲はどうなっているのかと問いただす。どうもなっておりませぬとまひろ。しかし為時は、お前の看病をする道長様の眼差しはただごとではなく、これを機にお前のお世話をしていただくことはできぬであろうかと口にする。

為時に言わせれば、どうでもよい女子の看病をあのようにするとは思えなかったのだが、まひろは、もしお気に召していたら、今頃文の一つくらい届いておりましょうと父に言う。これから来るやも知れぬと言う為時だが、お望みどおりにならず申し訳ございませんとまひろは言う。しかしいとが立ち聞きをしており、為時をつかまえてあれは嘘でございます。姫様と大納言様は間違いなく深い仲、自分の目に狂いはないと伝える。

道長は百舌彦に、まひろの様子を見に行かせる。あまりお知りにならない方がいいと百舌彦は渋るも、まひろの家まで行かされ、犬の鳴きまねをして乙丸を呼び出す。道長の命令であることを知り、そちらの殿様に、もうおやめになるよう申してくださいと百舌彦に頼む乙丸。気配を察知したまひろが現れ、乙丸は野良犬だとごまかすものの、まひろは百舌彦だと気づく。悲田院のことを持ち出し、礼を言うまひろ。しかし百舌彦は、あくまでも偶然乙丸に出会った風を装う。

道長は小屋を作るが、働き手が不足していた。近国から召し出せばよいと道長は言うが、疫病が蔓延しておる都に誰も来たがらなかった。道長は多少費用が高くついても、急いで人手を確保することにする。一方まひろは道長が悲田院に来た理由を模索し、7年前の、地位を得てまひろが望む世を作るべく、精一杯努めようと誓っているという言葉を思い出す。

道隆は酔って貴子に膝枕をさせる。子供たちの前だと言う貴子に、父と母が仲がよいことは、子供の頃から知っておるであろうと道隆は言い、伊周はそつなくご遠慮なくと言う。貴子を見初めたのは内裏の内侍所であったと話し始める道隆。その後伊周は、「さきの太政大臣三の君」である光子の許に行こうとしていた。

かりそめの女子にしては大物だと突っ込む隆家に、家に帰ると子が泣いてうるさいからだと伊周は言う。隆家も、あんな父上は見ていられないと出かけることにする。その伊周の妹、隆家の姉の定子につかえるききょう(清少納言)に、藤原斉信はなぜ返歌をくれぬのだと迫り、はぐらかそうとするききょうに、コケにするなと彼女の胸元に手をやる。深い仲になったからと言って、自分の女みたいに言わないでと去るききょう。

男ができたか、前の夫とよりを戻したのかと尚も斉信は突っ込み、ききょうは呆れ顔で、そんなことをねちねち訊く貴方は本当に嫌とすげなく言う。それでも迫ろうとする斉信に、もうすぐお越しになるわとききょうは立ち去る。やがて帝と定子、そして道隆や公任、行成もその場に現れるが、道隆の笛の音がおかしいことに2人は気づく。

道隆はひどく咳込み、立ち上がろうとしてその場に崩れる。病臥する道隆の許へ、安倍晴明が呼ばれる。水差しごと水をあおるように飲み、咳込む道隆は目のかすみ、手足のしびれ、咽喉の渇きを訴える。誰ぞの呪詛に違いない、どうじゃと尋ねる道隆に、お心当たりでもございますかと問う晴明。

心当たりはあり過ぎる、道兼も詮子も、道長とて腹の内はわからぬ、皆わしの死を望んでおると吐き捨てるように道隆は言う。晴明はそれは呪詛ではない、恐れながらご寿命が尽きようとしていると告げる。それを聞いた道隆は晴明に近づき、お前の祈祷でわしの寿命を延ばせと命じる。

難しゅうございますがやってみましょうと、晴明はその命を受けるが、実際は特にやる気があるようにも見えず、自邸に戻り、須麻流に平癒を祈れ、もう関白は何をしても助からぬと言う。お苦しみはが和らぐよう祈ると言う須麻流だが、晴明は病の者の穢れを貰った、いけないと呪いを唱える。


まひろの病が癒え、乙丸から道長が助けたこと、看病されたことを伝えられます。なぜ道長がそうしたのか訝るまひろですが、7年前の約束、まひろが望むような世の中を作るというのを実現しようとしたのかとまひろは考えます。一方道長もそのことが気になっているようで、百舌彦をひそかに遣らせます。百舌彦は乙丸と立ち話をしていたように装いますが、まひろは気づいていたと思われ、百舌彦に礼を言います。

このまひろと道長のことを、為時も危ぶみますが、お気に召したのなら、歌のひとつも届いていたでしょうとまひろは答えます。しかしいとは深い仲であると為時に伝えます。前回倫子が察したように、道長の心の中では、まひろの存在が大きくなっていました。それもあってか、明子の高松殿にあまり通わなくなって行きます。また疫病患者のために小屋を作る提案をし、倫子が協力しますが、道長に取って本当の「妻」は誰であるのでしょうか。

ついでながら、ナレにもあるように、この当時の夫婦の財産はぞれぞれ別に管理されていました。この傾向は戦国時代頃までは続き、それぞれが自分の財産を、利息付きで相手に貸すこともあったようです。

そして道隆。糖尿病が進行し、誰の目にも変調が明らかになって行きます。それでも今の地位にしがみつきたい道隆は、安倍晴明に祈祷をさせますが、その晴明は最早匙を投げ、須麻流に代行をさせる始末でした。そして伊周は、嫡妻の許へ帰るのを拒み、別の女性の許へ向かいます。叔父である道長が、まひろのことを気に留めつつも、土御門殿で子供たちを相手にするのとは違った側面が見て取れます。

さらにききょう。斉信と恋仲になってはいるようですが、相手が迫ってくるのを巧みにはぐらかします。彼女のこういう一面は、まひろにはないものでした。しかし彼女が仕えた定子は道隆の死により、その兄弟共々後ろ盾を失い、さらには彼女自身も宮仕えを辞することになります。まひろ=紫式部の宮仕えはその後でした。


飲み物-ミルクを注がれるアイスコーヒー
[ 2024/04/29 05:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『風花帖』-65

吉乃に手を重ねられて、新六は震え、しばらくじっとしていた。
しかしふと新六は顔を上げ、赤く泣きはらした目で吉乃を見つめると、今度は白い歯を見せて笑った。
「もったいのうございます。吉乃様が命を賭けるほどの値打ちは、それがしにはございません」

そう言うなり新六は後ずさり、縁側に面した障子を開けた。「新六殿ーー」吉乃が呼びかけたが、新六は素早く頭を下げて言った。
「最早お別れをいたさねばなりません。吉乃様のお言葉は、新六は死んでも忘れはいたしません」

そしてするすると縁側に出て
ーー御免
と一声発し、既に夕闇が迫る庭に飛び降りて、背を向けて築地塀に走ると、今度はひらりと跳び上がった。

塀の上で様子を窺い、そして飛び降りると、屋敷を見張っていた藩士たちの声があがった。
「いたぞ」
「印南新六だ」
「捕まえろ」

しかし新六が走り去る足音と共に、藩士たちのうめく声が聞こえて来た。新六を取り押さえようとして斬られたのだろう。
吉乃は縁側に出て、新六が走り去った方向に目を遣った。これが、新六との生涯の別れになるのだと思ったのである。そこへ外の騒ぎを聞きつけたと思われる千代太が、縁側を走って来た。

「母上、印南様は如何されました」
千代太に尋ねられ、吉乃は目に涙を浮かべつつこう答えた。
「もう行ってしまわれました」

「戻っては来られないのですか」
千代太はまたも尋ねたが、吉乃は頭を振った。
「戻っては来られないでしょう。でも私は、あの方に戻って来てほしいと思っています」

たとえそれが、何十年先であってもいいから、新六が戻って来てくれたなら、どれほど嬉しいことか。そう思いながらも、吉乃の目から涙が流れ続けた。

菅屋敷を後にした新六は、小宮四郎左衛門一行に追いつこうと懸命に走っていた。既に日は落ちたものの、夜空に月が見えていた。城下の辻には、脱藩する者を警戒した藩士が見張りに立っていた。新六は闇の中を風のように移動し、彼らの目をすり抜けた。

しかし国境に差し掛かった時、関所はいつもとは違った、十数人の藩士による厳重な守りが敷かれていた。いずれも鉢巻を締め、襷掛けで袴の股立ちを取り、槍を手にしていた。
新六が駆け寄ると、藩士が何者かと呼び止めた。

新六は何も言わず走り抜けようとした。関所の藩士たちは槍を構え、
「脱藩いたす気だな、通さんぞ」
「おとなしくそれへ直れ」

と口々に言った。新六は一瞬足を止めるも、藩士たちを見回し、邪魔いたすなと一声叫ぶと宙へ跳んだ。驚いた藩士たちが槍で突きかかろうとするも、月明かりに照らされて黒く浮かび上がった新六が刀を振るうと、槍の柄が両断され、穂先の部分が地面にちらばった。


新六と吉乃は互いに思いを打ち明けますが、新六は小宮一行を追い、最早小倉へは戻らない決意を固めていました。吉乃には、新六がここを去ることがひどく悲しく思われました。そして新六は屋敷を出、見張っていた藩士たちを斬って、走り去って行きます。吉乃は新六が去る方向を見やって、涙を流します。しかし騒ぎを聞きつけてやって来た千代太は、この間の事情を知る由もなく、印南様はもう戻って来られないのかと母に尋ねます。吉乃はもう戻って来ないと知りつつも、戻って来てほしいという本音を洩らします。

そして新六は、見張りの目をすり抜けて走ります。旧暦の11月半ばで満月の頃であり、灯を持たずとも道を行くことができたのでしょう。しかし国境まで走った時、藩士たちが守りを固めているのに気づきます。脱藩者を警戒してのことでした。実際これより前に、四郎左衛門たちのみならず、小倉城下から大勢の藩士たちが出国して行き、中老たちは藩主小笠原忠固に、小宮たちを呼び戻さねばならないと進言していました。一方家老の小笠原出雲は新六を捕らえよと下僚に命じており、この守りの固さも、出雲の意向を受けてのことであったようです。

そして関所で新六は、藩士たちを相手に夢想願流の技を披露します。この時は相手を斬ると言うよりは、相手の槍の穂先を落として、戦えなくするというものでした。ちなみにこの国境ですが、元々豊前と筑前のボーダーラインは堺川とされており、今も境川という地名があります。小倉北区に隣接していて、近くに九州工業大学があり、北西方向に洞海湾があって若戸大橋が架かっています。ともあれ新六は、このような事態を切り抜け、黒崎宿へ入って、方円斎との再会を果たせたというわけです。

飲み物-アイスコーヒー5
[ 2024/04/28 01:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

インスタの画像に思うこと

まず先日の「北九州と福岡と その15」で、福岡市営渡船の「ゆうなみ」について書いていませんでしたので、付け足しています。

このテーマの投稿ももう15回になり、今後どれとどれを組み合わせるべきか、時間がある時にインスタ(使用許可済み、または利用規約に沿った使い方のみ)をチェックすることがあります。そのせいでⅩを見る機会が、以前より多少少なくなっていると思われます。

ただしそういったアカウントに欲しい画像がない時は、フリー画像をDLしています。

しかし北九州と福岡では、共通するものもある一方で、それぞれの違いもまた存在します。先日分の山と海もですが、北九州は工業地域が存在するのに対し、福岡は商業とサービス業が強く、工業地域特有の煙突が存在しません。

また北九州のレトロ建築の多くが近代化遺産ですが、福岡にあるのは貴賓館や大学の建物、教会などです(ただし、赤煉瓦文化館は日本生命の九州支店)。また福岡の場合神社仏閣が多めなのに加え、「屋台メシ」があるのも特徴と言えるでしょう。

それぞれの市関連のSNSとしては、以下のページでそれぞれ紹介されています。


この福岡市関連アカウントで「福岡市の文化財」があります。個人的には、結構楽しめるアカウントです。

以前ご紹介した平安スイーツ「べいだん」や、鴻臚館跡出土のイスラム陶器の壺の破片などはここのものです。元々は福岡市の文化財活用課のアカウントで、埋蔵文化財関連の情報も多いです。

埋蔵文化財といえば、以前埋蔵文化財センターのバックヤードツアーで、甕棺が並ぶ薄暗い通路を、提灯の灯を頼りに頼りに歩くという、スリリングでなかなか攻めた企画がありました。ここは、福岡城御掃除之者(清掃ボランティア)の募集をかけてもいましたね。

飲み物-華やかなティーカップと紅茶
[ 2024/04/27 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

第16回『光る君へ』武将ジャパンコラムに関するnote記事

では今週も、たけたけさんのnote記事からいくつかご紹介します。またいつも通り、武者さんのコラムからの引用部分は、ダークブルーです。

大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第16回~

まずは藤原伊周が、行成が献上したいものがあると帝に伝える。
藤原行成筆の『古今和歌集』でした。

ここのところ、もちろん「『古今和歌集』の写し」と直されています。
さらに帝が目を通していたのは、巻第一春歌上とまず説明されています。そして元々春の始まり、そして新しい年の始まりである立春は、太陽暦では2月4日であるものの、太陰暦では12月後半から1月後半であり、年によっては12月中に立春を迎えるため、新年を迎えても、昨年なのか今年なのかわからないという意味であるとの説明が続きます。
また、この行成の筆になる『古今和歌集断簡(荒木切)』は東京国立博物館の所蔵と書き添えられています。

年賀状に「迎春」などと書くのは、この名残であると考えられます。また立春の前日の大晦日が追儺(ついな)であり、疫鬼や疫神を払う日でした。これが後に節分の豆まきへと変化し行きます。元々中華圏ルーツなのですが、武者さん何も書かないのでしょうか。

藤原斉信からも献上品がありました。
越前からの銅鏡です。 
越前からということは、北宋からの渡来品でしょうか?

この鏡は『唐鏡』とあり、宋・元時代に造られた銅鏡は宋元鏡と呼ばれていること、銅不足のため薄手で、細かい唐草紋などのある円鏡、四花、八花、八稜鏡、そして主に浙江地方で作られた、無紋で鏡背に銘のあるものなどがあると書かれています。

さらに越前国は、延喜式による等級で北陸道唯一の大国であり、日本海を利用した海上交通が盛んであったこと、同国への行程は『延喜式』によれば「上七日、下四日、海路六日」という決まりがあり、渤海の使節団を迎えるため建てられた松原客館という迎賓・宿泊施設があったとも説明されています。そしてこの鏡は、宋元鏡で、先が尖った8枚の花弁をかたどった八稜鏡だろうかとありますね。

あと「香炉峰の雪」、そして雪山作りと続きますが、

「子供かよw」と笑われるかもしれませんが、平安貴族の雪山は、侮らない方がよいですよ。
しっかりした防寒具もないような時代なのに、記録を見るとなかなか巨大なものを作り上げております。

ここで、武者さんの
「記録を見るとなかなか巨大なものを作り上げております」
という記述に対し、たけたけさんは
「その雪山を作っている記録を出典を挙げて具体的に紹介して下さい」
と書いています。

そして『枕草子』の「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」で、長徳4(998)年12月中旬の大雪で、あちらこちらの御殿の庭で雪山が作られ、中宮の命令で集まってきた貴族たちが雪の山を作り出す場面や、また、『源氏物語』二十帖朝顔に、女童たちが庭に降りて「雪まろばし」する場面の説明が加えられています。

また「悪左府」藤原頼長の雪山作りに関して、武者さんは以下のように書いていますが、

「悪左府」こと藤原頼長です。
彼の日記『台記』によると、独力で巨大な雪山づくりをぶっ通しでしていたとか。 
一体なんなのでしょう……。

貴族たちが雪を楽しみの一つとして見ており、雪山作りに精を出す姿を日記に残しただけで。一体なんなのでしょうと目くじらを立てられるいわれはないとまずあり、さらに『台記』の保延2年(1136年)十二月四日条、久安2年(1146年)十二月二十一日条で、食事抜きで雪山を作ったとか、雪山の大きさが一丈余りもあったなどの記述があるそうですとも書かれています。

武者さん、こういうのは調べるべきではないかと思いますが、なぜ調べないのでしょうね。

こうした時代ごとの芸能再現はこれからの時代重要です。
中国では時代ごとの舞姿の動画があり、見応えがあります。
アジアの時代劇は近世以降に集中する傾向もありましたが、韓流にせよ、華流にせよ、それより古い時代のものが増えている。
時代劇や大河ドラマというと、戦国時代や幕末といった定番の時代だけを思い浮かべるのはもう古くなっているのです。

これに関しては、こう反論されています。

『こうした時代ごとの芸能再現はこれからの時代重要です。』とありますが、大河ドラマでは登場人物が雅楽の舞を舞ったり、白拍子や散楽や能・狂言などの芸能が出てきたのですが、お得意の10年ルール縛りでは確認もできないでしょうか。
(原文ママ)

私も関連投稿で触れましたが、昨年の『どうする家康』では、秀頼が大坂城で舞っていましたし、それ以外にも、その時々の芸能を採り入れた作品は沢山あります。

そして、道綱が道長に対して話しかけるシーンで、「ヘラヘラ」という言葉が使われていることに対し、

明るく明朗快活な人に対して『ヘラヘラ』という表現を使うのが好きなんですかね。

という指摘がなされています。
恐らくこの道綱のキャラが、少なくとも好きではないのでしょうね。好きな大河でも、嫌いなキャラはかなり叩いていますし(『鎌倉殿の13人』の坂東武者、特に北条時政も然り)。

『貞観政要』が出ましたね。
『鎌倉殿の13人』では北条泰時が読んでいたこの漢籍。
『貞観政要』は8世紀前半に成立し、唐代の歴史家・呉兢が編纂したとされる太宗の政治に関する言行を記録した言行録です。

これについては、太宗とそれを補佐した臣下たちの政治問答を通して、臣下の直言を積極的に取り入れ、常に最善の君主たらんとした『貞観の治』と呼ばれた治世を学ぶために、古来から帝王学の教科書とされたとあります。

尚この『貞観政要』に関して、こういうエピソードもありました。

『どうする家康』で家康公を演じた松本潤さんはNHK『YouTube歴史探偵』の番組内で、『家康はどのような本を読んでいたのか』という話題になり、家康公の愛読書として松本さんの口から『貞観政要』が出て、番組スタッフさんからも『家康に対して真摯に、真面目に向き合われている方だと思います』と感心されていたとのエピソードもありました。
(原文ママ)

さらに後世では、武官の危険性をふまえていないからこそ、武士の台頭につながってゆく。

これに対しても、武官は律令制の官職であり、兵部省管轄の官人であること。そして武士は武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された下級貴族や下級官人、あるいは有力者の家人からなる人々のことだと書かれています。

そして武士の台頭ですが、これ以前に平将門(桓武平氏)の乱、藤原純友(藤原北家)の乱が起きており、この乱を鎮圧したのも武士であること、地元の豪族や有力農民が、賜姓皇族や国司の任期を終えても、そのまま地方に残った貴族の子孫などを棟梁として、武士団を形成したともあります。

『鎌倉殿の13人』の時もそうでしたが、武者さんは武官と武士を同一視しているのではないかと思われます。

道隆は視野が狭窄しています。
放火犯は自分たちに悪意を持つ貴族の仕業だと思っている。
疫病対策をしないことに怒った庶民が犯人である可能性については、想像すらできていない様子。

この内裏ですが、たけたけさんはこう説明しています。

国政は平安京の北側中央に位置し、高い築地塀と14の門に囲まれた『大内裏』では宮城である内裏と二官八省の官衙(行政施設)が集まった場所で官人貴族はここで働いています。
大内裏の中心から東寄りに位置した天皇の私的な在所や後宮がある場所が『内裏』です。
外郭と内郭の二重構造で周囲を築地塀に囲まれています。

そして、清涼殿の殿上の間に昇ることを許されたのは、三位以上、そして四位・五位のうち特に許された人、および六位の蔵人という限られた貴族(殿上人)であり、一般庶民は大内裏の塀の外側の平安京に住んでいるため、固く守られた内裏の最深部に入って、何度も放火に及ぶとは考えにくいと思いますとしたうえで、ゆえに藤原隆家が、女院の仕業かと言ったのではないかとあります。

ここ、私は「内部事情に詳しい者の犯行」と書いていますが、実際内裏のことをよく知る人でないと不可能でしょうね。

そしてこの疫病が天然痘であること、『栄花物語』には

いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり(どうしたことか、この年は世の中が騒然とし、春から病にかかる人が多く、都の大路にも忌まわしいもの(遺体)がたくさんある)

そして『日本紀略』には

正月より十二月に至るまで、天下の疫癘、最も盛んなり、鎮西より起こり、遍く七道に満つ
京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり

とあることも書かれています。
(でもこういうの、本来は武者さんの仕事ですよね)

で鎮西、つまり九州から広がった疫病により、民のみならず五位以上の公卿67名も亡くなっています。

この天然痘によって亡くなった貴族で思い出すのが藤原義孝です。小倉百人一種の第50番
「君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな」
の作者で、この時ではなく、天延2(974)年の大流行の時に亡くなりました。21歳の若さでした。そして兄の挙賢も同じ日に、同じ天然痘で亡くなっています。
尚この藤原義孝の長男が、藤原行成です。

九州から広がった疫病としては、幕末のコレラもあります。あれは長崎からでした。

さらにこの時の道隆の策について、時代考証の倉本一宏氏が、著書『一条天皇』でこう述べていることが指摘されています。

兼家の強引な「引き」によって何の苦労もなく政権の座に就いた道隆にとっては、自分の子息を昇進させて政権後継者の資格を付与することくらいしか、国難に対処する方策はなかったのであろう。…中関白家をますます孤立させる結果となった

また悲田院に関しては、仏教の慈悲に思想に基づいた、社会的弱者を救済するための施設であり、聖徳太子が建てたとする伝承もあるものの、最古の記録としては、養老7(723)年、光明皇后により興福寺に、施薬院と共に設置されたもの(『扶桑略記』)とされていること、その後平安時代には平安京の東西2か所に増設され、東の悲田院は鴨川河畔にあったこと、藤原実資が施しをしたことがあったことなど(『小右記』)も指摘されています。

武者さん、こういうのもちゃんと書いてください。

先日、日本の漢方は中国の技術を盗んだものだという意見が現地にはあると、中国の方から聞きました。
酷い言い分だ!……と反論したいようで、一理あるとも思えました。

具体的な意見でないため、マックの女子高生構文に近いこと、その人物が実在するのが信憑性に欠けるとあり、元々中華帝国の医学が日本や朝鮮半島に渡り、独自に発達したこと、日本の漢方は5世紀のはじめに、朝鮮半島経由で中華圏の医学が伝わったことが始まりとされたことに触れ、さらに遣隋使、遣唐使により医学が直接導入されたといったことが説明されています。

マックの女子高生構文、私も同感です。そういえば武者さん、昨年は、コラム冒頭でやけに「おじさん構文」を登場させていましたね。

朝鮮と交易する対馬藩が、こっそり朝鮮人参の種を盗んだという説もありまして。

これも盗んだという説の出典を提示してくださいとまずあり、対馬藩が朝鮮との通商交易については独占的となっていたこと、特に朝鮮人参を独占的に輸入しており、両国の国書を偽造したことの裏付けとなる、偽造印もあることが書かれています。尚これに関しての資料は以下の通りです。

e国宝 - 対馬宗家関係資料(重要文化財、九州国立博物館所蔵)
文化財高精細画像公開システム(「e国宝」)

そして私がブーメランではと書いたここですが、

そんな作者の意図を無視して、ただのアクセサリのように用いる、ファッション的漢籍教養はいかがなものか?
上っ面だけ理解して、教養をひけらかし、一体何なのか?
そんな苦いものがジワジワと浮かんでくるようにも思えます。

清少納言をディスっているのでしょうが

歴史ライター且つアフィリエイトブログでお金を頂いているのに、和歌や漢籍の解説もなくただあらすじや解釈違いの訳を付け、『上っ面だけ理解して、教養をひけらかし、一体何なのか?』の様にマウント取りだ、アリバイ作りだ、マンスプレイニングだと言う何見氏の方が何なのでしょうか。
(原文ママ、何見氏=武者さん)

とありますね。
またこれも最初に関連投稿で書いたことですが、

乙彦がそろそろ戻ろうと告げるものの、まひろは動きません。

で、乙彦ではなく乙丸ですと訂正されており、百舌彦と混同しているのかともあります。

もしもNHK大河チームがそんな声を真剣に受け止めていたら、たねや、たねを救おうとするまひろはなかったことでしょう。
そうならなくてよかったと思います。
歴史は史書に名を残す人物だけが紡いできたものではありません。

この最後の行
「歴史は史書に名を残す人物だけが紡いできたものではありません」
と主張するものの、嫌いな作品ならば、
『ヒーロー奮起のためヒロインを酷い殺し方にするパターンは「冷蔵庫の女」というアメコミ由来の言葉があり、大河ドラマで、そんなことやられても困る』
と叩いていたのではないかと書かれています。冷蔵庫の女=都合よく殺される女のことですね。

そして、実際に『どうする家康』の瀬名、お田鶴そして阿月が死んだ時の批判は、罵倒に近いものだったとも指摘されています。彼女たちがなぜそういう行動に至ったのか、このコラムでは考察された跡が感じられませんでした。

それから越前の鏡がらみで

越前はこのあと出てくる場所ですので、予習の意味もあるのかもしれませんし、【刀威の入寇】で対応する藤原隆家も出てきました。

「刀威の入寇」ではなく「刀伊の入寇」ですとあります。元々は高麗語で、高麗以東の戎狄をさすす『toi』に、日本の文字を当てたものといわれているようで、リンク記事には「刀伊の入寇」とあるので、きちんと確認して下さいと注意されています。

火曜日に加筆修正されて、再度アップされたようなのですが、結局「乙彦」も「刀威の入寇」も直されていませんでした。

飲み物-パブのビール2
[ 2024/04/27 02:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

北九州と福岡と その15(それぞれの山と海)

では今回は、先日触れた「北九州の山、福岡の海」について書こうと思います。

まず皿倉山ケーブルカーです。この皿倉山は帆柱連山のひとつで標高622メートルです。神功皇后伝説があり、この山に登った皇后が下山する時は日が暮れていたため、「更に暮れたり」と言ったのが語源とされています。尚この伝説は北部九州に多く、福岡市に隣接する粕屋郡の「宇美」や「志免」も皇后に由来します。

でこのケーブルカー、皿倉登山鉄道株式会社によって運営されており、正式名称を帆柱ケーブル線と言います。但し、この名で案内されることはありません。2台運行されていて、「はるか」と「かなた」という愛称がついています。利用方法としては、山麓まではバスで、JR八幡駅からシャトルバスが運行されています。かつては小倉駅や八幡東区のジ・アウトレット北九州からも、シャトルバスが運行されていました。

ケーブルカーに乗るとまず山上駅へ向かいます。山上駅でスロープカーに乗り換え、3分で山頂に到着します。山麓から山頂までの所要時間は約10分で、山頂では北九州市のパノラマを一望することができます。このスロープカー、日本の法律上はエレベーターとみなされ、ケーブルカーよりも小さくて可愛らしいイメージです。尚福岡市動植物園も坂道があることから、このスロープカーが利用されています。

運賃は大人の場合ケーブルカーが片道430円で往復820円、スロープカーが片道210円で往復420円です。今年の3月からクレジットカードやICカードによる決済が可能となりました。また回数券(11枚、大人4300円)もあります。

スロープカーが停車する展望台駅には展望室のみならずレストランもあって、カレーやサンドイッチ、ハンバーグなどの食事をすることができます。
(北九州市広報室アカウントより)

一方福岡市、こちらは市営渡船です。

市営渡船には博多から志賀島の航路をはじめ、玄界島と博多を結ぶ航路、姪浜と能古島、そして小呂島(おろのしま)をそれぞれ結ぶ4つの航路があり、このすべてが市営です。また博多埠頭あるいは百道浜のマリゾンと、海の中道を結ぶ航路(うみなかライン)は民間業者の運営です。

船はそれぞれに名前がつけられています。志賀島航路は「きんいん」、玄界島航路は「みどり丸」、能古航路は「フラワーのこ」または「レインボーのこ」で、小呂島航路が「ニューおろしま」です。また複数の航路に使われる船として「ゆうなみ」があります。

所要時間は博多-志賀島が30分、玄界島航路が35分、姪浜から能古が10分、そして同じく同じく姪浜から小呂島までが一番時間がかかり、65分となっています。運賃は志賀島航路の場合、博多埠頭から西戸崎(さいとざき)までが450円、志賀島までが630円です。西戸崎から志賀島までは230円です。また博多と玄界島を結ぶ航路は870円、姪浜から能古までが230円、小呂島までが1790円です。

つまり、姪浜から能古島までが一番近く、そして運賃も安くなっており、便数も多いです。これらの渡船は通勤や通学に使う人もいるため、定期も購入できます。またICカードも利用できるようになっています。船には自転車を載せられますし、フェリーを使う能古航路に限り、車やバイクを載せることもできます。

そしてこちらの画像の船ですが、船体にアーチが見えることから、能古島に向かう「レインボーのこ」と思われます。また今回は福岡市ではなく、福岡市西区のアカウントの画像を使用しています。福岡市のそれほどフォロワー数は多くありませんが、きれいな風景が数多くアップされているアカウントです。

(福岡市西区アカウントより)

[ 2024/04/26 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第16回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-3

第16回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその3です。
前回の薬に関する記述の続きです。

中でも朝鮮人参栽培は重要です。
先日、日本の漢方は中国の技術を盗んだものだという意見が現地にはあると、中国の方から聞きました。
酷い言い分だ!……と反論したいようで、一理あるとも思えました。
朝鮮人参を含む栄養ドリンクは今日でも高級ですよね。ましてや昔は最高級品です。
しかも朝鮮や中国からの輸入頼りです。吉宗時代となると輸入による金銀流出が深刻な問題でした。
輸入頼りの高級薬剤を国産にしたら大幅な財政改善が見込めます。

その「中国の方」とはどういう方でしょうか。また「マックの女子高生」と同じようなパターンになっていませんか。
そして輸入による金銀流出ですが、なぜか人参以外の商品についての記述がありません。
この当時生糸や絹織物、そして砂糖もまた国産化できるようになっていたため、それらの商品の輸入量も減少しているはずです。

江戸時代に吹き荒れた貨幣資源の海外流失の危機とは⁉
(歴史人)

一方でキリスト教関連以外の洋書を解禁し、これが蘭学の急成長を招いています。

そして、輸出する側としては目玉商品の人参を売りたいわけですが、吉宗は国産化したいため、

そこで朝鮮と交易する対馬藩が、こっそり朝鮮人参の種を盗んだという説もありまして

と書かれています。いつも思うのですが、こういうのの出典がまるでありませんね。
これに関しては、奥医師の林良喜が朝鮮薬材の調査を対馬藩に命じ、享保6(1721)年に人参の生の根が届けられ、その後も苗や種が届けられるようになります。
詳細については下記のサイトをごらんください。

徳川八代将軍・吉宗は薬として朝鮮人参の栽培を苦肉の策で実験・栽培に成功
(美濃国岩村城の歴史と関連武将たち)

またこの当時、人参が栽培されていたのは会津、信濃そして出雲のみでした。

高麗人参の歴史
このあたりは来年の『べらぼう』にも関わりかねない話ですので、予習しておくとよいかもしれませんね。脚本の森下佳子さんは医療描写が盤石ですので、是非とも見たいところです。

これ『光る君へ』のコラムですよね。
しかも来年の大河が医療関連ならともかくそうではないし、さらにまだ放送されてもいないのに、今からあれこれ推測して書くのもどうかと思います。それも個人のサイトやブログならまだわかりますが。

しかし、平安時代ですと、この葛根湯すら手に入らない。
それこそ健康マニアで上級貴族の藤原実資クラスの人物が、太宰府に来ている唐人医経由で手に入れるといった手段しか考えられません。

葛根湯は『傷寒論』や『金匱要略』に記されていますね。ただこの大河の時代は、医療を受けられる人はまだ限られていました。
そして「健康マニアで上級貴族の藤原実資クラス」藤原実資がなぜ健康マニアなのか、この間も書いていましたが、出典を引用して説明して貰えませんか。あと「太宰府」でなく「大宰府」です。
尚私はこの反対のミスをやっていますので、直しています。

「都の様子は俺が見てくる。汚れ仕事は俺の役目だ」
そう言い切る道兼よ……嗚呼、こんなに格好いい男だったのかと惚れ惚れしてしまいそうです。人生の苦さや転落も知ったからこその悟りがある。まさか道兼に心を打たれる日が来るとは。

伊周から、叔父上は何かよきことをなさったのか、このまま何もなさらないのも悪くはないと言われたこともあり、自らリスクの大きい役目を引き受けたようにも取れますね。

かくして道兼は悲田院にきますが、道長もついてきていました。
「私は死ぬ気がしない」と強気です。
「相変わらず間抜けな奴だ」道兼はそう言いながら、兄弟で中を見回ります。

道長は廊下で道兼とすれ違った時、自分も悲田院を見て来ると言っています。ついて来たのではなく、別々に来ていて、あそこで出くわしたのでしょう。

道長はまひろの看病をしながら、心の声で語りかけます。
生まれてきた意味は見つかったのか?――逝くな、戻ってこい。
確かにこれはソウルメイトとしか言いようがない。
ものすごく甘ったるいようで苦い。
道綱の言葉で、まひろのことを思い出してしまった。
そしてよりにもよってこう再会するとは。
(中略)
そんな相手が消えてしまわないように看病する道長の姿も、看病されるまひろの姿も、神々しさすら感じさせます。

武者さん、好きな大河だとこのように書くのでしょうが、嫌いな大河だとセリフがクサいだの、あんな別れ方をしておきながら、道長がこのようなことを言う神経が理解し難いだの言いそうですね。
実際『どうする家康』ではそう書いていましたし。

彼女は小麻呂を抱いています。私は退場したのかと思っておりました。長寿猫ですね。

あれが小麻呂であるなら、再登場するまでにかなり間が空いていますね。
そして倫子が笑みを洩らすシーン、赤染衛門共々廊下に立っているわけですが、ここで昨年の武者さんの登場人物叩きの文章を置いておきます。

このドラマは、誰かがボーッと立ちっぱなしの場面があまりに多い。
男女問わず、ただ突っ立っている姿ばかりです。
和装で座るとなると、所作指導が重要です。打掛ともなるとますます大変。
だからといって、立たせっぱなしとはあまりに情けない話だ。

まひろは、道長の声が「まひろ、まひろ」と呼ぶ声が心に響いてきて、目を覚ましたのでした。

あれ道長でなく、為時の声に聞こえたのですが。

そしてまた『麒麟がくる』で、駒の薬を売っていた少年が殺されるのが批判されたが、乱世の厳しさを表す秀逸な場面で思ったとか、東庵や駒の民を救う姿勢も理解されず、バカだのファンタジーだの罵倒されていたと書かれています。

好きな大河が批判されるとむきになりますね。その一方で、楽しんでいる人がいるにも関わらず、嫌いな大河なら批判を通り越して叩きまくりです。武者さん、矛盾していると思いませんか。
それも駒があのまま薬屋でいたのであれば、それはそれで筋が通っていたとは思いますが。

もしもNHK大河チームがそんな声を真剣に受け止めていたら、たねや、たねを救おうとするまひろはなかったことでしょう。そうならなくてよかったと思います。

あちらは戦国こちらは平安、駒は薬屋でまひろは下級貴族の娘、もちろん医療経験はなし。かなり違うと思います。そして駒の薬を売りに行った少年と、たねもまた置かれた環境は同じではないでしょう。
なぜ単純比較してしまうのでしょうね。

歴史は史書に名を残す人物だけが紡いできたものではありません。
たねのように幼くして命を落とし、字も書けない人は消えてしまいます。
そんな消えた存在に光を当て、歴史を学ぶ意義を再確認させてくれるたねは重要でした。

「たねのように幼くして命を落とし、字も書けない人は消えてしまいます。
そんな消えた存在に光を当て、歴史を学ぶ意義を再確認させてくれるたねは重要でした」
とありますが、
「この当時の庶民はたねのように字も書けず、幼くして命を落とす人も多いものでした。
そういう歴史の陰に埋もれた人々を、掘り起こしてくれたのは重要でした」
とでも書いてほしいのですが…。
ちなみに庶民が表舞台に出て来るのは中世後半、室町時代の頃からですね。

しかし武者さん、これもまた嫌いな作品なら、オリキャラなんて所詮使い捨てだと叩くのかも知れません。

道隆に代表される中関白家は、庶民のことなど目に入らない。
関係ないと考えている。
そういう人々が優美に過ごす前半が光だとすれば、たねが命を落とす後半は影でした。
疫病に苦しむ庶民を描くことは、何もまひろと道長がロマンチックな再会を果たすだけの意味があるわけではありません。

こういう書き方をすること自体
「まひろと道長がロマンチックな再会を果たすための演出としての疫病」
と考えているように見えて仕方ないのですが。

そして「影」の部分は何も疫病だけではありません。
放火もまたしかりでしょう。そして公任、斉信そして行成が道長に出し抜かれるのではないかといった話をするところ、倫子が道長の心に誰かがいると感づく辺り、さらに道隆の病と死も、今後様々な形で影を落としそうですね。

当時の社会矛盾。
清少納言と紫式部の対比。
思想を持つ者と、そうではない者。
そんな対比を際立たせたのです。

社会矛盾と言うか道隆の傲慢と言えるかと。さらに清少納言(ききょう)と紫式部(まひろ)の対比も、2人はまだ同じ条件下にいるわけではありませんから、この場合比較になるでしょうか。
そして「思想を持つ者」とありますが、それはどのような思想で、この大河にどういう影響を及ぼすと考えるのか、それあをはっきりさせてほしいものです。

しかし昨年の叩き方があまりにひどかったせいか、今年のを見ると
「嫌いな作品だったら、武者さんはどう書くか」
何かにつけてそれを考えるようになっていますね。


飲み物-グラスに注がれたエール
[ 2024/04/26 02:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

23-24リーグワン第14節結果と第15節試合予定及び田中史朗選手引退

リーグワン前節の結果です(赤文字勝利チーム)。

ディビジョン1(第14節)
東京サンゴリアス 31 - 31 静岡ブルーレヴズ
横浜キヤノンイーグルス 43 - 19 三菱重工相模原ダイナボアーズ
トヨタヴェルブリッツ 7 - 40 埼玉ワイルドナイツ
三重ホンダヒート  7 - 8 東芝ブレイブルーパス東京
クボタスピアーズ船橋・東京ベイ 39 - 29 コベルコ神戸スティーラーズ
花園近鉄ライナーズ 34 - 23 ブラックラムズ東京

ディビジョン2(順位決定戦第1節)
浦安D-Rocks 57 - 20 豊田自動織機シャトルズ愛知
レッドハリケーンズ大阪 21 - 18 日本製鉄釜石シーウェイブス

ディビジョン3(第13節)
クリタウォーターガッシュ昭島  41 - 59 日野レッドドルフィンズ
清水建設江東ブルーシャークス 21 - 20 中国電力レッドレグリオンズ

そして次節の試合予定です。

4月27日

ディビジョン1(第15節)
三菱重工相模原ダイナボアーズ - ブラックラムズ東京
東芝ブレイブルーパス東京 - 東京サンゴリアス
コベルコ神戸スティーラーズ - 静岡ブルーレヴズ
トヨタヴェルブリッツ - 横浜キヤノンイーグルス
埼玉ワイルドナイツ - 花園近鉄ライナーズ
クボタスピアーズ船橋・東京ベイ - 三重ホンダヒート

ディビジョン3(第14節)
中国電力レッドレグリオンズ - クリタウォーターガッシュ昭島

4月28日

ディビジョン2(順位決定戦第2節)
グリーンロケッツ東葛 - 豊田自動織機シャトルズ愛知
九州電力キューデンヴォルテクス - 日本製鉄釜石シーウェイブス

ディビジョン3(第14節)
スカイアクティブズ広島 - 日野レッドドルフィンズ

そしてご存知の方も多いでしょうが、元日本代表SH、田中史朗(ふみあき)選手が現役引退を発表しています。

NECグリーンロケッツ東葛、田中史朗選手 現役引退のお知らせ
(リーグワン公式サイト)

記事中で田中選手は、
「パレードに今まで見たことがないほど多くのファンの方が集まってくださり、感激のあまり流した涙は忘れません」
とコメントしていますが、引退発表の時も涙を流していましたね。かなり前、まだワイルドナイツ所属の頃(ワイルドナイツ→イーグルス→グリーンロケッツ)に当時の博多の森、今のベスト電器スタジアムで間近で見たのを覚えています。
お疲れさまでした。

飲み物-パブのビール
[ 2024/04/26 00:15 ] ラグビー | TB(-) | CM(0)

北九州と福岡と 番外編 それぞれの地形と次回投稿について

「北九州と福岡と」今回は番外で、今までのおさらいと次回関連投稿の予習です。

それぞれのお城に関して投稿していて、ならば現代版もという形で始めて、もう15回を迎えようとしています。
まずおさらいですが、北九州市の地形について。下記の画像にありますが

北九州市地図

東の方にある門司区、ここと西の若松区が響灘に大きく突き出した格好になっており、小倉南区が特に面積が大きいです。概して北九州市は、福岡市に比べて山や丘陵、ひいては坂が多いのが特徴です。そのため皿倉山などは、ケーブルカーが運行されています。また洞海湾がありますが、この湾はかなり細長くなっていて、下記の福岡市に於ける博多湾とは違った雰囲気です。外海で波が荒い響灘に直接面しているせいでしょうか、マリンスポーツが川で行われることもあるようです。

一方福岡市です。

福岡市地図

ごらんのように、こちらは内湾である博多湾があり、それに沿うようにして市街地があります。この博多湾は2つの半島、即ち志賀島と糸島半島に囲まれており、いくつかの島があります。北九州市とは異なり、山は油山などを除けば、市の南の筑紫地域(春日、大野城、筑紫野、那珂川、太宰府)に多く、市街地は平野部が多いのが特徴です。もちろん丘陵地もあり、これら丘陵地は公園がある地域に多く、パークラインと呼ばれています。具体的な公園名としては
西公園
舞鶴公園(福岡城)
南公園(福岡市動植物園)
などです。

つまるところ
北九州市は海や港も有名だが、山もある
福岡市は山もあるが、海に負うところが大きい
こう見るべきでしょう。
尚福岡市の場合、博多湾でマリンスポーツということが多く、また市営渡船が4航路、民間業者による渡船が2航路あります。

次回の関連投稿は、このそれぞれの山と海になります。
しかしこのテーマで投稿するに当たって、それぞれの市や区のインスタを見ていると、色々と発見があるものです。それについては、また改めて。
[ 2024/04/25 02:45 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第16回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

第16回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその2です。
実は今回は4ページと、いつもより1ページ少ないのですが、武者さんがドラマと直接関係のないことを延々と書いており、少々突っ込みたいので、いつも通り3回に分けて投稿します。


それにしても、井浦新さんは改めて凄まじい方だと思いました。
若い頃はまるで春の日差しのように、穏やかで暖かい貴公子ぶり。それが段々と野心を夏の太陽のように輝かせ、ここでは秋のように翳ってゆく。
人の一生を春夏秋冬のように演じ分ける。素晴らしいではないですか。

それは井浦さんの道隆に限らないかと思います。
大河の主な登場人物は、皆ぞれぞれの生き方をしており、道隆のように、最初は穏やかであったり、あるいは弱弱しくもある人物が、年齢と経験を積んでタフになるというのは多いものです。そして自分の理想を具現化して行くわけですが、この道隆のように、どこか満たされないまま生涯を終えることもあるわけです。
昨年の家康も、一昨年の義時もまたしかりでしょう。

『貞観政要』が出ましたね。
『鎌倉殿の13人』では北条泰時が読んでいたこの漢籍。
帝が政治の指針として持ち出すことで、先ほどの「香炉峰の雪」の場面に別の意味合いが浮かぶようにも思えてきます。

ここのところですが、なぜ「香炉峰の雪」に別の意味合いかと言うと、白居易があの詩を作った時には、左遷されて江州にいたからという背景があったとあり、

彼は官僚であり、どうすればよい政治ができるか考えていて、それが作品にも反映されている。

なのだそうですが、あの詩で白居易は、寧ろこの地方での生活を楽しんでいるように見えます。実際江州への左遷後は政治的な行動を慎み、さらに年齢を重ねてからは、事実上の引退生活にも入っています。この江州時代に所謂閑適詩と呼ばれるものが多く作られ、日本で愛された白居易の詩は、この閑適詩とも言われています。
「どうすればよい政治ができるか」とは多少違うかと思いますが。

白楽天:漢詩の注釈と解説
(漢詩と中国文化)

そんな作者の意図を無視して、ただのアクセサリのように用いる、ファッション的漢籍教養はいかがなものか?
上っ面だけ理解して、教養をひけらかし、一体何なのか?
そんな苦いものがジワジワと浮かんでくるようにも思えます。

すみません、凄いブーメランに見えてしまうのですが、武者さん。

そして

紫式部は『紫式部日記』で清少納言の教養なぞ上っ面だけだと批判しました。

とありますが、今はまだまひろが宮仕えをし、紫式部と呼ばれる前の段階が描かれていますので、この当時『紫式部日記』はまだ存在していません。先日の越前の雪もそうでしたが、なぜその時点で経験していない、あるいは存在しないものを、わざわざ引き合いに出すのでしょうか。

また平安時代に大人気だった『長恨歌』の背景となる玄宗皇帝の楊貴妃への熱愛の危険性だの、安禄山の危険性だの、それをどれだけ考えているのかなどという主張が出て来ますが、それとこの大河とどう関係があるのですか。

とどのつまり、ファッション的漢籍教養がよくない、その裏にある思想や危険性を読み解かなければならないと言いたいのでしょうが、そういうのは大河以外のコラムでやってください。よほど書きたいのかも知れませんが、作品中で明らかにそういう描写が登場したのならいざ知らず、大河コラムでやるべきことではありません。

女性の政治権限については抑えるどころか、むしろ女院という強化をしてしまう中関白家。
さらに後世では、武官の危険性をふまえていないからこそ、武士の台頭につながってゆく。
――漢籍の思想を政治に生かせるようになってゆくのは、もっと時代がくだってからのようです。

確かに詮子、あるいは彰子のような人物は政治的影響力もあったでしょうが、その後の女院はそうでない人物、また多くの荘園を持ち、文化や芸能を保護した人物もいました。

院政期の女性と文化・芸能
(京都女子大学)

そして武官と武士は別のものですよ。
さらに、漢籍の思想が政治に入って行くのは江戸時代以降です。

「そのような考えで内大臣が務まるとも思わぬ」
道兼が手厳しく言うも、反対に伊周は「叔父上は何かよいことをなさったのか、このまま何もなさらないのも悪くない」と煽り返してくる。
以前の道兼ならば「花山院出家の謀略は俺あってのことだ!」とでも言いそうですが、自暴自棄となった時期を経て、彼もようやく成熟したのでしょう。

自暴自棄で公任邸に入りびたり、弟の道長に諫められてその後右大臣とまでなっています。変わらざるを得なかったでしょう。

そして薬師が入ってきて、冷たく言い放ちます。
「生きている者は手をあげよ、死んだ者は運び出す」

あれ薬師ですか?役人あるいは放免のような人々ではないかと思います(死者という『穢れ』に触れるのだから放免でしょうか)。そもそも薬師は足りていないのに、あのようなこと、しかも手荒なことをさせるでしょうか。

放火犯は自分たちに悪意を持つ貴族の仕業だと思っている。
疫病対策をしないことに怒った庶民が犯人である可能性については、想像すらできていない様子。

庶民が犯人である可能性というのは、今回は登場していません。
第一庶民が、内裏のそのような場所まで入れるでしょうか。内部事情をよく知る者の犯行でしょう。

そして疫病対策について『麒麟がくる』、さらには『大奥』が引き合いに出されており、

そのため吉宗は、各地で薬草栽培を奨励し、簡単な薬ならば民衆が自ら調合できるようにしたのです。

徳川吉宗は小石川養生所を作り、さらに各地で薬草を探させ、御薬園で栽培させたのではないでしょうか。
下記サイトによればこうあります。

小石川植物園前史
(日本植物研究の歴史 小石川植物園300年の歩み)

吉宗はお庭番で本草にも詳しい植村左平次を国内各地に派遣して薬草の探索を行なわせ、これを吹上庭で栽培するなど、薬効のある植物の探索に積極的に取り組んでいた。

あとこの前のページに貝原益軒が出て来ますが、彼も本草学者(儒学者でもあります)として有名で、『養生訓』を著しています。

現代人からすれば素朴なようで、当時とすれば画期的です。
病気になったらなす術なく、死を待つか、祈祷でもするしかない状態と比較すれば、薬草を煎じて飲むだけでも大幅な進歩と言えるでしょう。
病は気からと言います。気力が尽きたら命も縮む。ほったらかしにされるのではなく、薬を口にできるだけで助かる命はあるのです。

ドラマ本編を観ていると、たねの両親が薬草を貰いに悲田院に行ったとあります。そして武者さんも
「“とと”と“かか”が帰ってこないのだとか。
聞けば、昨日、悲田院に行ったそうです。熱があり、薬草をもらいに行ったのだとか」
と書いています。

つまりこの場合
「病気になったらなす術なく、死を待つか、祈祷でもするしかない状態」
ではなく、薬草は存在していたものの、悲田院で貰えなかったのか、あるいは貰ったけど効かなかったのかのどちらかでしょう。


飲み物-パブのアンバーエール2
[ 2024/04/25 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)
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『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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