『武将ジャパン』大河コラム関連その3です。
瀬名みたいに、生花とイチャコラ(死語・朝ドラ『らんまん』で使っていました)しかしていなかった愚か者が、急にドヤ顔で経済の話をしても意味がわかりません。
(中略)
書いている側も戦国時代の経済が理解できていないようで、現実社会と向き合っているかどうかすらあやしい。
まず「イチャコラ」とは、カップルなどが人目をはばからずいちゃつくことを言います。
で瀬名の場合、花べったりではなく、息子信康とその正室五徳を気遣い、夫への叱咤激励的なこともやっていたわけですし、当然「ドヤ外で経済の話」などはやっておりません。またここで経済と呼ぶべきものは「同じ銭を使う」ことくらいしか見当たらず、しかもこの時代は既に貨幣経済の時代であり、それはこの前の回に五徳が、築山の様子を知らせた門番に、褒美として銭を与えたことからも読み取れます。
壮大な策とか言い出した瀬名は、カルトにハマった有閑セレブ主婦にしか見えません。
思い返せば、一向一揆でもカルトと絡めていてウケていましたね。で、今度はもっとハードコアなネタに向かうわけですか。
別に瀬名の考えはカルトではありませんが、言うなればあまりにも「お花畑」的なイメージが強く、これを実現するにはかなり無理があったと取るべきでしょう。
そして一向一揆ですが、あれは民衆の一揆に土地の有力豪族が絡んで膨れ上がり、実際この大河にもあったように、家中が分裂しかねない状態になったわけですが、宗教が絡んだら何でもカルトなのでしょうか。
とっておきの作戦が
「戦をするフリ」
と言われた瞬間、ズッコケた視聴者も少なくなかったでしょう。
制作サイドも、劇中の徳川家臣団も、そんなことが通用すると本気で考えたのでしょうか?
信長に黙って瀬名の構想を実現するのであれば、戦っていないけど戦うふりをするしかないのではないでしょうか。無論信長からすれば、武田相手に手こずっていると見られ、家康の目付け役の佐久間信盛が責任を取らされそうになるわけですが。
武装集団は危険です。
「戦うのではなく、武装姿で訴えにいこう! そうすれば願いが叶うはずだ!」
そんな風に脅すつもりで進んでいて、何かの弾みで大惨劇が起こる――というのは歴史的によくあることです。
足利義輝の殺害、禁門の変、そして鳥羽・伏見の戦いですら、歯止めの効かない状況に陥り、大事件へ発展したと指摘されています。
江戸開城のときだって、武装解除をしていないから、上野戦争が起きています。おまけに幕臣が海軍力を頼りに箱館戦争まで粘った。
この武田相手に戦をするふりと、武装集団での直訴とは異なるものではないでしょうか。
徳川と武田の偽の戦の場合、直訴をするわけではありません。あくまでも当事者同士が、信長の目を欺く(完全に欺けたわけではありませんが)ためのものであるわけで、なぜ唐突に
「脅かすつもりで進む」だの、
「歯止めの聞かない状況に陥る」だのになるのでしょうか。
そのくせ、つまみ食い的に新説をかじるのが本作の特徴で、
「森蘭丸でなく、森乱にしました! 新説を取り入れてます!」
「口さがない者は蟹の模様が鬱陶しいと言いましたが、ああいう子ども服は現存します!」
と主張する。
そんなものはアリバイだし、そういう瑣末なところを拾って「歴史通なら理解できるこのドラマ!」とでも主張されたいのでしょうか。
平山優氏に注意されたのがよほど面白くなかったのでしょうか。
ちなみに平山氏本人のツイ、本文だけご紹介しておきます。
「彼が「蘭丸」と称した事例は存在しないのです。彼の文書には「乱」「乱法師」とあり、諱は「成利」です。森蘭丸というのは、軍記物などによる呼称。なので今回は、森乱としていただきました」
これにもあるように、本人が蘭丸と称した事例がないから森乱としているわけですし、蟹模様の浴衣も実在することは、公式サイトの柘植氏のコラムを見れば明らかですが、それがなぜアリバイになるのでしょうね。これもまた考証であり、史料をもとにしているわけなのですが。
ロシアの内乱を見てください。
今のところ少しは落ち着いたように見えるが、現実はどうなのか、この先どうなってしまうのか。
軍事力を持つ、持たない――そのリスクは古今東西あります。
なのに本作では、まるで子どもが持つおもちゃの兵隊のように扱っている。
一体どこまで幼稚なのか。砂遊びがしたいなら、大河でなくてもよいでしょう。小説投稿サイトに架空戦記でも投稿すれば良いと思います。
ここで、この大河が現実とリンクしたとかでロシアの内乱(首謀者はベラルーシに逃げたなどと言われていますが)を持ち出し、軍事力に関して、
「本作では、まるで子どもが持つおもちゃの兵隊のように扱っている」
などとありますが、誰が何を子供のおもちゃの兵隊にように扱っているのが、説明不足と言わざるを得ません。
そしてさらに意味がわからないのが
「一体どこまで幼稚なのか。砂遊びがしたいなら、大河でなくてもよいでしょう。小説投稿サイトに架空戦記でも投稿すれば良いと思います」
そもそも誰が「幼稚」なのですか?
「砂遊びがしたい」とは何を意味しているのですか?
言っては何ですが、このコラムそのものがレビューと言うより投稿小説のように見えてしまうのですが。せっかくの史料もアリバイ扱いしてますし。
あと武者さん、「一体どこまで~なのか」あるいは「どれだけ~なのだ」という構文も好きですね。昔からこれ使っていますが、問題提起と言うより、自身の不満を漏らしているだけのようにも取れます。
老子に「兵は不祥の器」とあります。
武力があるとどうしたって歯止めがきかない。だからといって、乱世で武装解除するわけにもいかない。まず天下を平定し、人心を和らげ、武装解除させる。
そういうプロセスもなく、いきなり妄想じみたことをして解決するわけがありません。
まず「兵は不祥の器」ですが、こういう意味ではないのでしょうか。
兵すなわち軍隊は不吉なものであるため、徳と分別があるものは近寄らない。君子のような身分の高い人が扱うものではないし、やむを得ず兵を使う場合は、あまり固執せず、最小限にとどめることが大事である。
そして
「だからといって」
以降ですが、まず天下を平定するにしても、誰がどのような方法で平定するのでしょうか。ここで初めて天下布武に代表されるような権力がある、武力がある人物(つまり信長)がそれに乗り出すことになるわけです。しかし武者さんの文章を見ても、その辺りがきわめて曖昧なのですね。
あと瀬名の構想は家康の家臣たちも首をひねっており、勝頼も女子のままごとと言っているわけで、妄想という言葉を使うのなら、彼らのセリフを引用するとよりはっきりするかと思います。
瀬名が発案した、妄想だらけの空想同盟は、結局、虚な目をした勝頼が全部ぶちまけることにしました。
男性原理を悪い方向に使っていますね。
「男は殴り合ってこそじゃん!」
そういうノリであるなら、本作の責任者が本気で謝罪して欲しい。
勝頼の目が虚ろに見えるのですか?それはそうと、この場合「ぶちまける」のではなく「覆す」のではないでしょうか。要は勝頼は瀬名の構想を「覆し」、自らの思いを「ぶちまけた」わけなのですが。
そして「男性原理を悪い方向に使っている」だの。
「男は殴り合ってこそ」だの。
そもそも勝頼も信長同様、天下を掌握することを夢見ていたわけであり(あらすじと感想で『東の信長的存在』と書いた所以です)、ならば自分は戦う、戦って死にたいと言ったわけで、これがどうやって
「男は殴り合ってこそ」
になるのでしょうか。無論天下掌握の過程で、血を流すことにはなりますが。
武者さんの目には、何が見えているのかと思います。
そして
「男は殴り合ってこそじゃん!」
そういうノリであるなら、本作の責任者が本気で謝罪して欲しい
などとありますが、なぜ責任者がここで謝ることになるのでしょうか。ともかく、平山氏にも制作スタッフにもかなり不満があるのは理解できますが、私は共感しません。