『武将ジャパン』大河コラム、あらすじレビュー総論まとめについての疑問点その4です。一応これで終わりとしますが、本当言って全文突っ込みたくなりますね。これが個人のサイトやブログで、無償で書いているのならそれはそれでいいのです。
しかし報酬を貰って書いていてこの有様です。無論こういう文章を何年間も書かせる方も責任があるでしょう。嫌いな大河の時には「辛口」の書評(とも言えませんが)だからとのことでしたが、『麒麟がくる』や今年の場合は、お世辞にも辛口とは言えません。と言うか、三谷大河はやはり擁護したいのですね。嫌いな作品で以下のようなシーンが出て来たら叩きまくるでしょう。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー総論まとめ第49回「傑作か否か」 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
https://bushoojapan.com/taiga/kamakura13/2022/12/26/172629
まず初回に出て来た「首ちょんぱ」関連で、
今回は敢えて時代劇から外した演出やセリフ回しを使用しています。
北条時政の「首ちょんぱじゃねえか!」という台詞は話題をさらいました。
こうした台詞は笑わせようというだけではなく、人物像や語彙力を示す上でも効率的であったといえます。
演出面でもGoTを参照したいとスタッフは語っています。
つまり“敢えて”これまでの時代劇でなくしているのです。
それが好みに合わないのであれば、”not for me”、「好みに合わない」で終わる話。叩くのは筋違いです。
(中略)
作る側が進歩したならば、見る側もそうあるべきではないか?と思うのです。
この「話題をさらった」というのは、当然悪い意味での話題もあったわけです。なのに
「それが好みに合わないのであれば、”not for me”、「好みに合わない」で終わる話。叩くのは筋違いです」
別にわざわざ”not for me”と英語を出さなくても、好みに合わない、自分向きではないと書けば済む話だと思いますが。
しかも
「叩くのは筋違いです」
「作る側が進歩したならば、見る側もそうあるべきではないか?と思うのです」
何とも上から目線の書き方ですね。なぜ作る側にこちらがすべて合わせないといけないのでしょうか。無論合わせたい人も当然いるでしょうが、何だこのセリフと思っている人が、異を唱えるのを許さないと言っているに等しいと思います。
尚、坂東彌十郎さんの時政は好きでした。
三谷さんが「原作」と語っている『吾妻鏡』は、そこまで信頼性の高い史料ではありません。
『吾妻鏡』のぼかした箇所、北条美化についての研究書は一般向けにも発売されているほど。
史料批判を考えれば、『吾妻鏡』通りにしろというのは、むしろ一体何を言っているのか?というような話となります。
『吾妻鏡』ですが、信頼性云々以前に、北条氏のためのものであるのは事実です。しかし三谷さんは公式サイトの中で
「今回で言えば、『吾妻鏡』という、克明に当時の記録が記された文献がある。もうこれが原作のつもりで書いてます。ここに書いてあることに沿って物語をつくり、書かれていない部分に関しては想像を働かせる」
と言っている以上、もう少し『吾妻鏡』に沿った描写もあってしかるべきだったかと思います。
そもそも大河ドラマで、歴史の勉強はできるようで、できませんよね。
大河の関連書籍を並べて「歴史の本を読みました」と言われても、それは受け入れられないでしょう。
いわば大河は”パティシェ三谷さんが作った鎌倉野菜のプリン“のようなもの。
いくら栄養たっぷりの野菜を使っていようと、
「このプリンはおやつじゃないんです。野菜を使ってます! サラダや野菜炒めと同じです!」
では話が通じません。
「いくら野菜を使っていてもプリンはおやつです。そう認識してください」
「いや、このプリンは健康にいい、野菜の風味も生きてて最高。そう野菜料理だという前提で食べているのに何でケチをつけられるんですか? プリンのカロリーぶん、ちゃんと他のものを減らしますよ」
こんな返答になりがちで、話の核がはぐらかされてしまう。
おやつはおやつです。
きっかけとしてはよいけれど、あくまで入口でしかない。
ではなぜ、この手の「史実と違う大河を受け付けんぞぉ!」という記事が出るか?
何だかわかりづらい例えですね。
問題は史実と創作の配分であるかと思うのですが。
要はこういうことでしょうか。
A「大河は史実あってこその大河、下手な創作など入れるべきではない」
B「しかし創作も入れないと、ドラマとして成り立って行きません」
A「その創作が面白くないと、ドラマのとしてのうまみに欠ける」
C「問題は、その創作を視聴者がどのように捉えるかではないでしょうか。無論視聴者によっては面白くないと言う人もいるでしょうから」
A「いや、やはり俺に取っては面白くない」
C「ならばいっそのこと、観ない方がいいと思いますよ。精神衛生面でもよくないでしょう。ただ、なぜ面白くないかと追求したいのであれば別ですけどね」
A「脚本家によってその創作の面白さはまちまちだからな」
C「それはそうですね」
それに「大河は」ではなくて、「『鎌倉殿の13人』は」ですね。すべての大河を三谷さんが書いているわけではありませんので。
ではなぜ、この手の「史実と違う大河を受け付けんぞぉ!」という記事が出るか?
需要があればこそメディアも供給するのであり、主に中高年男性向けの媒体が中心。
愛読書ランキングを作ったら、司馬遼太郎が上位に入りそうな媒体ですね。
読むだけで歴史や世の中の真理を学べるとされていた昭和の感覚です。
そんな気分がまだ残っているから「大河は史実に忠実でなければならん」という謎の責務が湧いてきて、また読者に支持もされるのでしょう。
大河で歴史を学ぶ弊害はそれこそ昭和の頃から指摘されていたんですけどね。
本当にそう言い切れるものでしょうか。ちゃんとリサーチをしていますか。武者さんの好き嫌いだけで判断していませんか。何せ昭和の風潮がとことん嫌い(と言っていい)武者さんのことです。ネガティブな感情がかなり露わになっているようにも見えます。
私も「大河が歴史の勉強になる」とは思いませんが、だからと言って司馬さんの作品を一概に否定しようとも思いません。ちなみに武者さん、後の方で司馬氏の『義経』は面白いと書いています。
かつて先祖顕彰は歴史を学ぶ上で定番でした。
いかに我々の先祖が偉大であるか。支配に正統性があるか。そのために大仰に顕彰することが当然であったのです。
しかし、こうした自国の歴史を顕彰する動きは、近年はもう“オワコン”です。
(中略)
日本の歴史には清く正しい偉人ばかりがいた。偉大な歴史だ!――そんな意識で大河を作っていたら、終わりかねません。
根深い問題が日本の歴史教育にあると思います。
日本史と世界史に分かれた状況。
これがネックになっているのではないでしょうか。
日本だけで歴史を見ていくと、世界史において普遍的であること、特に中国や朝鮮であったことを「日本独自だ」と誤解するような事柄も出てきます。
昔の大河でも、主人公の描かれ方は必ずしもいいものばかりではないのですが。
具体的にどのような大河が「清く正しい偉人ばかりで、偉大な歴史だ」になるのでしょうか。そして日本史と世界史に分かれているのは、もちろん日本と海外との交流が近代に入るまで限定的で、植民地化されなかったことも関係しています。
それと
「日本だけで歴史を見ていくと、世界史において普遍的であること、特に中国や朝鮮であったことを「日本独自だ」と誤解するような事柄も出てきます」
何だか乱暴ですね。
例を挙げます。
「徳川幕府は世界に例のない長い王朝です」
李氏朝鮮の方が長い。
「刺身みたいな生魚を食べるのは日本人だけ」
膾(なます)という料理が中国にはありました。要するに刺身です。
「羹に懲りて膾を吹く」「膾のように切り刻む」という言葉が有名ですね。
中国では時代が降ると膾が廃れただけであり、刺身が日本由来とか、生魚を食べるのは日本だけというのは誤解があります。
「あんパンみたいな菓子パンがあるのは日本だけなんだって、すごい工夫だ、日本人はえらいんだ!」
確かにそれはそうです。しかし、その発想はどこからかというと、饅頭の生地を洋風のパンに置き換えた発想です。
あんを生地で包む発想は、中国由来ですね。
日本の文化や歴史を誇ることをやめろとは全く思いません。
ただ、誇るならば正確であるべきだし、そのことで他国を見下すのはみっともないことでしょう。
「日本人だけ」と言っているのは、必ずしも「他国を見下す」ことにはならないと思いますが。
あと徳川幕府は王朝ではなく、李氏朝鮮と比較することはできません。これ確か以前、ツイッターで論破されていたのを見たことがありますが、まだこう言うことを言っているのでしょうか。
それと膾は「人口に膾炙する」にも登場していますね。元々は生魚や生肉を刻んだものであり、日本もかつては生肉を刻んだもの、そして生魚を刻んだものとして、膳の中央よりも奥に置かれたことから、向こう付けと呼ばれるようになりました。今はおせち料理の紅白なますが有名です。一方刺身は食品をスライスしたもので、その意味でやや膾とは意味が異なります。
それとあんパンの件ですが、確かにかつての中国大陸では饅頭があり、それが日本にも伝わっていますが、パンであんを包むのは日本独自の発想でしょう。
大河ドラマは史実に沿うべきか?
この問いかけは時代によっても異なります。
『鎌倉殿の13人』のように中世ならば、史料が少なく、断定できないため、むしろ創作しなければドラマになりません。
逆に、現代に近づき、近代ともなればむしろ史料は多い。
ゆえに想像力の入り込む余地がありません。
私は2021年大河ドラマ『青天を衝け』における捏造は厳しく批判しました。
そのひとつが
【天狗党の大量処刑を徳川慶喜は命じておらず、田沼意尊単独で決めた】
というものです。
これは問題だとしたところ「慶喜が決めたというソースがあるんですか?」と言われました。
逆に言いますが、慶喜が命令していないという“ソース”は2021年大河ドラマ以外ありません。
渋沢栄一ですら「慶喜公も天狗党の件はお辛かっただろう」と気遣い、慶喜自身も天狗党について語る時は口が重たかったとされます。
あれではかえって慶喜に対して失礼に思えました。
中世なら創作を入れていい
近代は駄目
これではダブスタに他ならないと思います。
幕末大河だって創作が入ったのはありますし、また入れて悪いというわけでもないでしょう。ただ、あまりとっぴな創作は入れにくいとは思います。
それと『青天を衝け』ですが、慶喜は第17回の終盤と第18回の冒頭で、自分の手で天狗党を処刑すると言っていますが。
エンタメなら別に最新の研究を追わなくてもいいでしょ……というのは自国で完結している時代までの話です。
近代となると国際関係にも影響が及んできます。
ここでも悪い例として『青天を衝け』を出します。
あのドラマでは渋沢栄一がベルギー国王・レオポルド2世を称賛する場面がありました。
渋沢本人の回想に基づいていて、当時はレオポルド2世の酷い植民地経営が無法とされていなかったことも確かです。
しかし、ベルギーではもうレオポルド2世を肯定的に評価することはありません。
その素振りを見せただけで国際問題となります。
自国で完結していようがしていまいが、最新の研究は必要だと思いますが。
そしてこの『青天を衝け』のレオポルド2世の件ですが、過去のある時点のことを描くのであれば、栄一がレオポルド2世のことをほめるのは当然でしょう。確かこれも、ツイッターで指摘されていたと思います。
はっきり申しますと……2015年以降の近代大河を信じることは、国際的な人間関係においてはリスク要因です。
それは武者さん、貴方が嫌いな大河だからでしょう。好き嫌いで「レビュー」を書くのは、大河またはエンタメの記事を書く上でリスク要因ではないのでしょうか。
考えるべきはリカバリです。
そこで三谷さんの出番ですよ!
三谷さんならば『新・幕末史』と同じ程度に最新研究を反映した大河を作れるでしょう。
そして私が長年大河ドラマに対して抱いている不満――北海道ご当地がないことも、解決できると思えるのです。
47都道府県があって、これだけ長く続いているのに、北海道ご当地大河がない。
これでどうして国民的ドラマと言えるのか?
私はそこに義憤を感じるほどです。
三谷さんが脚本で、大泉洋さんや金子大地さんが大きなキャストで出る――そんな北海道近代大河の実現を希望します。
はっきり申しますと…私は今後三谷さんが大河を書いても観ないと思います。
それについてはまた後ほど触れますが、三谷さんの作品だからとある程度我慢をして観ていたこともあり、それがいくらかしんどくなったからと言えそうです。
しかし何と言いますか、
「三谷さんだから作れるの!2015年以降の近代大河は駄目なの!北海道大河がないことに我慢できないの!」
何なのでしょうね。これ『鎌倉殿の13人』の総まとめなのに、なぜか北海道大河まで出て来てしまうのですね。
ところでこの少し前に
「これについては、もしかしたら私が過去大河について『史実と違う!とケチをつけていたじゃないか!』とご指摘されたい方もおられるかもしれません」
「ご指摘されたい」と「おられる」の併用も妙なものですが、それはさておき。これは後述するとあるのですが、どうもその後述が、前出の天狗党関連のシーンへの言及と思われます。
これについては既に書いているのでここでは述べませんが、好きな大河では史実に沿っていなくても、批判も指摘もなし(『麒麟がくる』の場合も似たものがあります)、嫌いな大河は史実に沿っていようが、自分が考える筋書き通りに運ばないと何かの如く叩く。炎上狙いにしても工夫が今一つだし、繰り返すようですが、なぜこういうのを書かせるのか不思議で仕方ありません。
あと最後の方に
「歴史を学ぶ魅力というのは、天命の軌跡を見ることだと思います。
どう考えたって、こんなものは何か人智を超えた作用で起きるのだろうと呆然としてしまうことがある」
とあります。こんなものとはラストシーンのことですが、残念ながらどう考えても
「人智を超えた作用」とは、私には思えませんでした。
しかし本当に「天命」という言葉が好きですね。『どうする家康』でも使うのでしょうか。
結局のところ、今までのドラマ本編のコラムで書いたことの焼き直しがあまりにも多く、とても5ページ使って書く内容とは思えませんでした。本当に大河のコラムを書ける人なら、2ページか3ページで無駄なくきちんとまとめるでしょうね。
それとこのコラムへの疑問関連投稿ですが、第6回だけやっていないので年明け、次の大河が始まるまでにやるつもりです。
あと武者さんの書き方、考え方の癖についてもまとめられたらと思います。武者さんはとにかく、好きな大河であってもどこかネガティブな雰囲気が漂うのですが、それは嫌いな大河に好きな(推しの)大河を超えてほしくないという願望によるものでしょうか。