『武将ジャパン』大河コラムです。
今回は義経登場回ということで、2週間ぶりに目を通してみましたが、やはり相変わらずだなと思いました。
引用箇所(ブルー)はいずれも原文ママです。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第7回「敵か、あるいは」 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
清盛が頼朝追討を急ぐ件について。
清盛はそのあたりは鋭い。とはいえ、なぜ急ぐのか、そうするのか、もっと宗盛に伝えるべきでしょう。
そもそも平家は仁政を心掛けなかった。
民の不満を押さえつけるのではなく、聞き入れるようにしていれば、運命はちがっていたかもしれません。
そのころ、安房国では――。
「なぜ急ぐのか」についてですが、たかが流人と宗盛が言ったその後でのやりとりです。
清盛「すぐに追討せよ」
「必ず殺せ」
宗盛「源氏の嫡流とはいえたかが流人。恐るるに足りませぬかと」
清盛「すぐに追討せよ。必ず首を取れ!」
宗盛「直ちに取りかかります」
武者さんもこの前の部分でセリフを引用してはいるのですが、清盛がここまで言うからには、ただならぬ事態であると宗盛も察したのではないでしょうか。だからこそ「直ちに取りかかります」なのでしょう。
それとここでも仁政、『麒麟がくる』が頭から離れないようです。この場合の「不満を押さえつける」は、市中に放った禿のことと思われますが、ただこれが出て来るのは『平家物語』のみとされています。
北条義時と和田義盛が、援軍を頼むため上総広常のもとへ向かっていました。
なんでしょう、この圧倒的な人選ミス感は。
義盛は全ては俺にかかっている、必ず味方につけてみせるとアピールしつつ、「ついでこい!」と走り出す。
と、このドラマは演出が盤石だなぁ。
そんなもん人力で走ってなんの意味あります? やる気アピールをするだけで実質的な意味はなく、消耗するばかりでしょうもない。でも和田義盛なら仕方ない感がある。
あらすじでも書いていますが、和田義盛は『吾妻鏡』によれば、実際に上総広常を訪れています。義時はどうかわかりません。
それと「演出が盤石」云々ですが、義盛的なキャラが体力と気力に任せて走り出すのは「盤石」でしょうか。「盤石な演出」というのは、もっと緻密さが要求される場面で使われるのでは。
ダメな大河は無駄に主人公を走らせるんですね。
心がワクワクしているんだか胸がぐるぐるしているんだか……はっきりいって根性論。無駄な摩耗が肯定的に描かれると、ブラック企業の営業みたいで見る気が減退します。
今年は和田義盛がゴリ押しすることで、馬鹿馬鹿しさが強調される方向になって安心ですね。でかした!
ここでまた『青天を衝け』を貶めていますね。
あれはそもそも根性論でも無駄な摩耗でもなく、若い栄一の意気込みと取るべきなのですが、それはやりたくないのでしょう。そして和田義盛もさりげなくディスっているように見えます。三谷大河は好きだけど坂東武者は嫌いという、二面性が表れているように見えて仕方ありません。
その義盛や広常の服装について。
その辺に鶏がいるあたりが素朴ですし、派手な服も義時たちよりは高級そうだけどなんだか田舎っぽい。平安末期版のドン・キホーテで買った服と言いましょうか。
和田義盛なんか無駄に派手だし、袖を雑にまくっているし、義盛らしさ満点じゃないですか。広常もセンスが派手。義時は地味。
まず「服」でなく直垂と言ってほしいですね。しかも
「平安末期版のドン・キホーテで買った服」
とは何なのでしょう。『西郷どん』で遊郭をキャバクラ呼ばわりした武者さんらしい表現ではありますが。
あと鶏は卵や肉のために飼育していたでしょうし、場合によっては闘鶏目的ということもあるようです。尚軍鶏が闘鶏に使われるのは江戸時代に入ってからで、その前は小国という種類の鶏が使われていました。
ところで義盛の服装について。この画像の向かって右が義盛ですが、「無駄に派手」でしょうか。『麒麟がくる』の農民や市井の人々の、ショッキングピンクの着物の方がよほど派手に見えるのですが。(鎌倉殿の13人公式サイトより)
義時はオーラがありません。主人公補正がない。あいつはすごいと誰もがはっきり言わない。
聡明であることは、頼朝も政子も認めてはいるけれども、その辺の機微を小栗旬さんはうまく使い分けていると思います。
オーラのあるなしはともかく、そもそも『吾妻鏡』では行っていないはずの上総の屋敷に行くこと自体、主人公補正であるかと思うのですが。それに『青天を衝け』関連コラムで
「人と人が出会わないと歴史イベントが盛り上がらない」という思考に陥っている
映像にしない部分を如何に表現するか-という視点が肝要になる
と武者さんは書いていますが、この時の義時の描かれ方も
「『人と人が出会わないと歴史イベントが盛り上がらない』という思考に陥っている」
のではないでしょうか。しかしそもそもドラマとは、まず複数の人間の出会いがあり、それが進展して行くものではないかとは思いますが。
俺は素直な男だ。素直な男は損得で動く。頼朝につけばどんな得があるか?
広常は原始的であり、さらに、味方につけたいのは頼朝だけじゃないと語ります。
「損得で動く」のが原始的なら、戦国時代の武将たちの多くも原始的ではないのでしょうか。
この作品は、説得力のない奴ほど自信満々で素晴らしい。ダニング=クルーガー効果ってやつです。
大して説得力もないのに「俺がなんとかする!」と目をキラキラさせ、それで上手くいってしまう安易な展開は見どころがありません。
また某大河のことを言いたいのでしょうか。しかしこう頻繁に出て来る辺り、武者さんが意識しているのは事実かと思われます。それとこの場合、ダニング・クルーガー効果というよりは彼の性格によるものなのでは。
「刀は斬り手によって名刀にもなれば、なまくらにもなる。決めるのは斬り手の腕次第……御免」
思わずキョトンとする義盛。
「今のわかったか?」
揶揄が理解できないんですね。義時は無言。
どうにも恐ろしいことになってきました。広常も頼朝を利用する気が満々で、景時もそう。
頼朝という刀を名刀として世に出す策を、馬に揺られながら考えているのでしょう。
そうやって心に火をつけたのは北条義時であり、景時の性格をちょっと考察してみたいと思います。
天皇は、神か? そうでないか?
日本史を学ぶ上で、必ずつきあたるこの問題。信仰心があつい景時にとっては、神聖であることは確かでしょう。
この刀云々はいいでしょう。しかし不思議なのが、なぜ途中で唐突に、しかもあまり関連性があると言い難い景時の性格、そして天皇や朝廷に飛んでしまうのかです。それと広常も景時も、この段階では頼朝を利用しようとしていたとしても、特に不思議ではありません。
この眉剃りコントで笑ってしまいますが、結構重要なところだと思います。
『真田丸』でも「理に頼りすぎるばかりではいけない」という趣旨のセリフが出てきました。
これは何も三谷さんだけでなく、大河チームでそれができる人がいると私は推測しているのですが。
【情】と【理】の両方が必要である――それを意識して取り組まれている方がいるのでしょう。
個人的に、この眉剃りも何か唐突感がありました。義盛という人物をよく表しているとは思いますが、それだけであそこまで尺を取るべきなのでしょうか。それにどの大河でも「情」と「理」は使い分けているかと思うのですが、嫌いな大河になるとそれが見えなくなってしまうのが武者さんなのでしょう。で、ここでまた『青天を衝け』批判。
胸がぐるぐるとか、ムベムベとか。この手の言葉は【情】だけに突っ走っていて、説得力に欠ける。
むろん、ドラマは心に訴えかけるものですから、仕方ない一面はあれど、そこに偏って近道を走ろうとする脚本と演出はいかがなものでしょうか。
SNSの言葉が拾われ、ネットニュースで拡散する時代なら、なおさらそういう傾向も強くなります。
物事は【情】だけではダメで【理】がなくては説得力がありません。
このドラマの義時は【理】詰めで感【情】を動かす才能がある。そこがよいのです。
「そこに偏って近道を走ろうとする脚本と演出はいかがなものでしょうか。」
『青天を衝け』は、別に情の部分だけに偏っていなかったと思います。栄一の考え、天狗党を説得するシーンなどもちゃんと描かれていましたし。
また
「SNSの言葉が拾われ、ネットニュースで拡散する時代なら、なおさらそういう傾向も強くなります」
所謂エコーチェンバー的なものなのでしょうが、武者さんのコラムとコメント(削除されていない分)も似たような雰囲気であるかと思います。
そして千葉常胤。
こんなおじいちゃんにそこまで言われたら、そりゃ、広常も心は動きますよね……と、言いたいところですが、野蛮だとも思います。
武士は暴力集団、戦闘集団だと断言されました。それでいいのでしょうか。武士はそれだけなんですか。
大事な問い掛け。このドラマを見ながらそこは考えたい。戦うしか使命がない集団って、危険ですからね。
まず「断言された」の主語が不明です。
それとやけに武士は暴力集団などと書かれていますが、この当時の坂東の武者たちが、何を守ろうとして戦っていたのか、それはご存知なのでしょうか。結局ここでも坂東武者に対して批判的ではあるようです。彼らはこの大河の根幹を成す存在であるかとも思うのですが。
(この項続く)