『鎌倉殿の13人』第3回関連『武将ジャパン』コラムについての3回目ですが、その前に、少し前の分で意味が通りにくい箇所があったので修正しています。
それからこの武将ジャパン関連投稿の6で「犬追物」について書いていますが、『青天を衝け』でも、グラント元大統領が日本を訪れる際に、犬追物を見せようという提案がありましたね。
(『青天を衝け』公式サイトより)
では本題に行きます。騎馬武者関連の記述ですが、
西洋でも貴族より下、平民より上の階級にナイトがありました。
とあります。ただ西洋でも国によってナイトの位置づけにはいくらか違いがあり、それを考えるとちょっと大雑把だなと思います。というか、ここでそれを出すのであれば、日本の騎馬武者とナイトの位置づけの相違も、書かれてしかるべきではないかと。
それから頼朝の夢枕に立った後白河法皇。
頼朝と後白河法皇の夢枕なんて、『何をコントしているのか』とお考えの方もおられたでしょう。
しかしそれは、この作品というよりも、この時代の人にそうしたくなることかもしれません。
「頼朝と後白河法皇の夢枕」なんて、両者が同衾しているのかと一瞬思ってしまいますし、「この時代の人にそうしたくなる」というのが何とも意味不明なのですが。それと自分で「法皇様」と言ってしまう後白河法皇、パペットホームズで自分を「校長先生」と言ってしまうオルムシュタイン校長と、どこか似ています。しかし西田さん、もとい法皇様に似合うのは、やはり『新・三銃士』の「突くべし、突くべし、払うべし」でしょうか。
そして
夢を信じるとかアホですか?
といっても、ナレーションの言う通り、信じている話は出てくる。
緻密な思考ができないものだから、わけのわからんことを言い出します。
天変地異や疫病のシステムなんて、途轍もなく理解の範疇外のことだから「天罰だ!」となってしまうのも仕方ない。
それに、あまりに信仰心を踏んづけると、それはそれでまずいものです。
武者さんは一応この大河を評価しているはずです。しかし、その舞台となっている時代の習慣や信仰について、
「アホですか?」
「緻密な思考ができない」
「わけのわからんこと」
などなど、結構ディスっていないでしょうか。
先日書いたように、この時代は呪術的なものの存在や、あやかしといったものが色濃い時代であり、その当時はそれが当たり前というか、ごく自然に信じられていたと思うのですが。
『麒麟がくる』の信長は平然と仏像を破壊し、寺を焼いた。たとえ仏像がデタラメで効果なんて無くても、信じる気持ちまで踏みにじってはいけない……そう考える光秀は、信長の行動を前にして暗い顔になっていたものです。
といっても、夢のお告げねえ……。
英雄が過去にこんなツッコミどころがある言動をしていることには、やはり嫌になるものかもしれません。
ゆえに創作者は色々と考えてきたし、シリアスにしようと努力して来た。
それを引き離し、ありのままの困惑させられる姿を描くことが本作に課せられた使命ではないでしょうか。
『麒麟がくる』の場合、寺院勢力と敵対するというデメリットも無論あったでしょう。しかしそもそも、夢のお告げとはそんなに突っ込みどころがあるのでしょうか。
それに、この大河での描き方は「ありのまま」なのでしょうか。やはりコント的要素が強いとは思いますし、何よりも武者さん、三谷さんだから今までとは違ったやり方でやってくれる、大丈夫!と、言外ににおわせているように見えるのですが。
それと「困惑させられる」の主語は誰なのでしょう。
さらに木簡と紙。
【木簡】が大事な役割を果たした今回。
実際に鎌倉からはたくさん発掘されています。私は改めてこのことに動揺してしまいました。
『枕草子』の由来は有名です。(中略)
何が凄いか?というと、(一条天皇が)高級品の紙をプレゼントしていること。
そして帝が『史記』を写していること。
彼らにとって読み書きとは教養です。では、義時たちはどうか?というと、事務文書のやりとりにしか使わない。政子が文を全く読めないと言い切ったのも、無理もない。
また「動揺する」ですか…これって「不安な気持ちになる」ことではないのでしょうか。「感激」と間違えているような気もします。それとあらすじの方でも書きましたが、この「事務文書」とは具体的に何なのでしょうね。
紙と木簡の情報量は段違いです。紙の普及とは、言論や文学の普及とも重なります。
そんな紙が変えた人間の意識を示す言葉として、
洛陽の紙価貴(たか)める
という言葉があります。
左思という文学者の著作が大評判になり、書き写すために紙が飛ぶように売れて、値段が上がったっていったという意味です。
と、ここでまた中国関連。このコラムで書くのはこんなことより、なぜ頼朝が立ち上がろうとしたのか、なぜ夢枕に後白河法皇が現れたのか、法皇は、清盛とどのような確執があったのかといった部分の考察であるかと思われますが、二言目には中国がどうこうとなっていますね。
それと木簡が出て来るのなら「刀筆の吏」という言葉も紹介してほしいです。
このドラマに出てくる北条の人間には、後に漢籍を読みこなすようになる者たちがいます。
なんせ頼朝と政子の子である源実朝は、和歌を愛し、宋への留学に憧れるほどの貴公子に育ちました。
仏教も、鎌倉時代といえばともかく発展する。この時代の人々は、段違いで賢く、精密になってゆくのです。
社会が大きく変わったのは室町時代ではないかと思いますが。
それにしても実朝は「留学」したがっていたのでしょうか。ちょっと疑問なのですが。交易は視野に入れていたかも知れませんが。また人間に「精密」は普通使いわないと思います。レベルアップして行くとか、進歩するといった意味なのでしょうか。
しかし木簡で義時が兵の数を割り出したせいか、武者さんやけにこだわっています。
小道具として、これを作るのは相当手間がかかります。木簡に使われる墨も、紙とは別物なのです。
華流ドラマでも木簡や竹簡の時代だと「よくやるなぁ……お疲れ様です」と頭を下げたくなる。そんな気持ちを大河で味わえることの幸せよ。
なぜこの時代が大河にならないのか?
人気もあるだろうけど、小道具が大変と言うこともあると思います。
小道具については後述しますが、源平時代は、名前が覚えにくい、知名度が低いといった理由が挙げられます。話としてワンパターンになりがちというのもあるでしょう。
殺陣にしても、相当荒く原始的になる。
『鬼滅の刃』で言えば、伊之助みたいな連中ばかりなので、危険だし、ともかく大変でしょう。
「殺陣が荒く原始的」
よほどこう言いたいのでしょうね。ならばどのように荒く原始的なのかも書いてほしいし、もしそれが事実なら、そういう殺陣をしなければならないのも、なかなか大河化されない一因ではないでしょうか。本当はお気に入りの『麒麟がくる』を引き合いに出して、叩きたいのかも知れませんが、三谷大河である以上は擁護したいのでしょう。
三谷さんの脚本のスピードを不安に思う意見もありますね。
どうしてもよりよいものを書きたく、妥協できずに長くなってしまうタイプの方もいます。
しかし現時点までを見る限りは、遅れすぎて現場が崩壊したり、混乱することはないと感じます。
こう言いながら、なぜか『青天を衝け』や『西郷どん』では脚本家の気持ちに寄り添うことはないのですね。
で、その後また木簡の話。
今週みたいに、大量の木簡となると、そりゃー大変です。一から作ったのか、ストックなのかは不明ですが、あんなに出すだけで凄まじい!
それに小道具のクオリティも高いんですよね。
書状も綺麗です。NHK大河が書道の上手い人を連れてくるなんて、そんなの当たり前だけど、そういう当然のことを高次元で保っている。僭越ながら称賛されることだと思います。
ここで小道具関連で少々。
「小道具のクオリティも高いんですよね」
ということですが、どの大河も小道具のクオリティには気を使っているでしょう。昨年の『青天を衝け』の外交文書もしかりです。
それとこの部分
「NHK大河が書道の上手い人を連れてくるなんて、そんなの当たり前だけど、そういう当然のことを高次元で保っている。僭越ながら称賛されることだと思います。」
なんだか文章がぎこちないですね。「当然のことを高次元で保っている」とか、外国語の文章を翻訳ソフトで訳したみたいだし、「書道の上手い人」というのも「達筆な人」くらいでいいのでは。それにここで「僭越ながら」というのも、ちょっと変な感じがします-だったら嫌いな大河で、びしびし言う前に「僭越ながら」の一言があってほしいものです。
武者さんには何よりも「推敲」という言葉を覚えてほしいです。少なくともこの文章を読む限りでは。
そんな状況ですから、脚本が遅れたら大変です。下手をすれば時間が足りず、木簡ならぬプラスチック簡で誤魔化したくなったりするかもしれません。
ですので、三谷さんの原稿については細かい直しが入るにしても、大筋は事前に伝えて、準備が進められているのではないでしょうか。
脚本について何の心配もしていません。
最後の部分、何か言い訳じみているように見えて仕方ありません。素直に褒めておけばいいのに、どこか歯切れが悪い言い方をするのは、一体なぜなのでしょう。