第23回です。今回は大政奉還回ということもあり、家康公も途中での登場でしかも言葉少なです。
**********************
血洗島にパリからの手紙が届く。その手紙には、篤太夫の写真が同封されていた。お千代は、それを誇らしげに娘のうたに見せる。一方借款がちゃらになったことから、篤太夫たち民部公子(徳川昭武)の随行員は金策を練ることになり、田辺太一の提案で、昭武の名で為替を発行して買い取らせることにした。その後昭武は条約を結んだ国を歴訪することになったが、そこへ栗本鋤雲がやって来る。栗本は幕府の名誉回復に努め、借款をやり直す方針だった。そして小栗からの為替を渡し、簡素な旅を続けるようにと命じる。
この年の8月6日、杉浦愛蔵は、幕府の指示を仰ぐため帰国の途に就く。篤太夫はその杉浦に家族や成一郎宛ての手紙を託した。また平九郎のことも気になっていた。杉浦は、今後書記や会計を篤太夫に一任することになると言い、2人はウイスキーで乾杯する。その同じ日の朝、京では本圀寺遊撃隊なる者が原市之進を尋ねて来た。彼らはそのまま上がり込み、問答無用で原を斬ってしまう。原を狙ったのは直参の鈴木豊太郎、依田雄太郎らであった。慶喜は、側近がまたも幕臣に殺されたことに言いようのない複雑さを覚えていた。
血洗島では、見立て養子となった平九郎が正式に渋沢を名乗り、幕臣の身分となっていた。異国と交わることで進んだ技を身に着ければ、国の為にもなると惇忠。義姉として今後のことを言って聞かせるお千代。しかしていはその場を離れ、様子を見に来た平九郎に守袋を渡す。平九郎はそんなていを抱きしめ、栄一が無事に帰ってきたら、夫婦になろうと言うのだった。その頃京では、大久保一蔵が岩倉具視の寓居を訪ねていた。岩倉は錦旗の意匠を考え、早く王政復古すべしと息巻いていた。
その頃西郷吉之助は、伏見の薩摩藩邸で戦支度をしており、天璋院様御守衛という名目で浪士を集めていた。一方慶喜は借款もままならず、軍の整備もおぼつかなく、追いつめられていた。このまま薩摩と戦となれば、長州征討の二の舞になるのは目に見えており、慶喜は政権を朝廷に返上する決意を固める。そうすれば薩摩も振り上げたこぶしを下ろせず、しかも朝廷は長年政権から離れており、幕府を維持するだけの見込みはあった。しかし側近と呼べる者もいない今、慶喜は一人で悩まなければならなかった。
そして慶応3(1867)年10月12日、慶喜は政権を返上する旨を公表する。この後は広く公平な議論を尽くして帝の決断を仰ぎ、同心協力してこの国を守りたい、されば海外万国と同じ位置に立つと言い、さらに天子様の御心を安んじ奉るということは、護身君からの偉業を引き継ぐことであるが、しかし意見のある者は、遠慮なく言上せよとも口にする。
ここで家康、無念の表情で登場。
しかし幕臣たちの気持ちは収まらなかった。大政奉還は幕府の滅亡を急がせると小栗は言い、ともかく政を取り戻すべきと、挙兵して京に向かわせることにする。一方大奥では歌橋が自刃しようとしていた。天璋院は止めようとするが、歌橋は言った。
「慶喜が徳川を殺したのです」
京では松平春嶽が、なぜ大政奉還をしたのか問うが、今ああしなければ京は戦火に見舞われていた、今後は天子様のもと諸侯が力を合わせる手伝いをしたいと言う。謀ではないという慶喜に春嶽は感銘を受けるが、岩倉具視は倒幕の密勅が無駄になったことに腹を立てていた。将軍職も廃止とはならず、面白くなさそうな岩倉に赦免の知らせが届く。これで洛中に戻れると岩倉は喜ぶ。
パリでは栗本が、歴訪が終わった昭武のためにヴィレットと言う教師を連れて来ていた。ヴィレットは一同に、髷を落として洋装するようにと言う。まず篤太夫が髷を落とし、他の者たちも西洋人のような身なりになった。水戸藩士たちは、涙を浮かべつつ歌を詠んで髷を落とした。そして篤太夫は、ヴィレットと話していたエラールと言う人物に、役人かと訊いたところ、銀行家、つまり日本の両替商のようなものだとわかる。ヴィレットは高位の身分であり、その人物と両替商が親しく口を利くなどとは信じられなかった。
ベルギーでも国王が自国の鉄を勧めたりと、まるで商人のような口を利いていたのを篤太夫は思い出していた。鉄道や水道やガスやニュースペイパー同様に、身分などに関わりなく、人々が同じ立場で国のために励むことこそ、日本に持ち込むべきだと篤太夫は上機嫌で話し、エラールを喜ばせる。しかし水戸藩士たちは最早断髪に耐えられぬと言い、向山一履や田辺と共に帰国した。そして同じ年の12月9日、御所を固めていた薩摩藩士は中川宮らを通そうとせず、逆に岩倉は衣冠姿で入り、明治天皇に拝謁する。
その後小御所会議が開かれ、王政復古の宣言がなされる。しかし山内容堂は慶喜がいないと反発、明らかに薩摩に対して当てつけているように見えた。また松平春嶽や、尾張藩主徳川義勝も同意する。西郷はこの件で、戦をするべきかと考えていた。その後江戸城二の丸が放火され、さらに庄内藩の藩士が薩摩討つべしと、薩摩藩邸を焼き払う事態に発展する。しかも次の間に控えていた家臣たちも、次々に薩摩討つべしを連発していた。その頃パリには、大名たちの合議制による新しい政権を知らせる電報が届いたが、篤太夫たちには当然何のことやらわからなかった。
**********************
パリにいて西洋の文明を肌で感じる昭武一行ですが、日本ではいよいよ幕府がその終焉を迎えようとしていました。借款が白紙撤回されたこともあり、また軍備もおぼつかず、薩摩の計略をかわすために、慶喜は大政奉還を決意します。しかしこれが幕府内部に波紋を呼ぶことになります。
しかも薩摩の計略をかわすためであったとは言え、薩摩がこのままで終わるとは到底思えませんでした。さらにこれを受けて、岩倉具視が蟄居生活から解放されることになり、薩摩と結んで、自分で思い描いた通りの王政復古を実行に移して行きます。
そして篤太夫関連。初めて見る写真に驚く渋沢家の人々ですが、その渋沢家では見立て養子となった平九郎が、渋沢姓を名乗ります。その平九郎は栄一(篤太夫)が戻って来たら、晴れてていと夫婦になろうと考えていました-長年互いに思ってはいたようですが、なかなか一緒になれませんでしたからね。
さらに西洋の自由さに篤太夫は驚きます。無論、実際にはそこまできれいなものでもなかったでしょうが、彼らに取って「先進国」の魅力は如何ばかりであったでしょうか。無論鉄道、水道やガスなども日本にもたらされるべきものでしたが、「ニュースペイパー」は最近需要をなくしつつありますね。尤もフランス語だから「ジュルナル(journal)」と言うべきでしょうか。
しかし、これは前回の洋食関連でも書いたことですが、彼らに取って初めての洋服であるにもかかわらず、いとも着慣れているが如きなのがちょっと気になります。また何かと面倒くさい水戸藩士ですが、髷を切る時歌を詠むシーンに、かつて長州から英国に送られた青年たちが、断髪の際に歌を詠んだのがダブります。
そしてこれはまた徒然で書きますが、幕末史の描き方はどうにかならないものでしょうか。今までのどのような幕末大河と比べても、こんな荒っぽい描き方は初めてです(『花燃ゆ』の方がましでした)。恐らくツイッターで補足しているのかも知れませんが、ドラマに盛り込めないのなら、脚本を変えてほしいと、最近は思うようになっています。制作サイドの怠慢とも言ってもいいでしょうか。大政奉還のシーンなどは、幕末史好きの人たちから物足りないの声が上がっていました。実はこの大政奉還、小松帯刀もかなり関与しているのですけどね。