翌天正10(1582)年、光秀は数えで55歳になり、流石に心気の衰えを感じるようになります。元々丈夫な方でもなかった上に、その6年前の本願寺攻めの最中に病気になり、この年の暮れには妻のお槇も病を得ます。その後も戦に明け暮れる中で、養生の悪さと野戦生活が祟ったのか、熟睡できなくなって行きます。
ある時夢の中で、前将軍足利義昭が忍びで亀山城にやって来て、客殿へお迎え申せと命じた後再び眠りに落ち、目覚めてから弥平次にこう言います。
「将軍(くぼう)様がお出ましになった夢を見た」
しかしこれは夢ではなく、義昭自身ではないものの、義昭の使いが光秀を訪れていたのでした。
ここで義昭のその後について。将軍の座を追われた当時は、反織田同盟結成に躍起になっていたものの、武田信玄と上杉謙信が相次いで世を去り、本願寺は信長と和睦し、紀州雑賀の地侍集団も勢いを失くし、頼るべきは毛利氏だけという有様でした。
しかし毛利氏は、創業者と言うべき元就の遺言によって覇気を禁じているため、天下を取るという気概がなく、現在中国地方に送り込まれている秀吉との戦いでも、後手に回っている感がありました。義昭はその毛利氏から御殿を与えられ、居候ながら当主輝元に命令をくだしていましたが、これは毛利氏としても、将軍の命により逆賊信長を討つという大義名分が与えられるからで、家中の精神的支柱ともなっていました。
これにより義昭は、輝元のことを副将軍と位置付けていたのですが、光秀はそういう近況を聞くにつけ、寧ろ気の毒な人物であると思うようになっていました。夢破れた今、元の僧に戻ることも可能だったのですが、執拗に信長を追い詰めようとする陰謀好きの体質は直らないようです。
その意味で面白い人物とも言えるのですが、光秀に取っては今の主の信長の最も厄介な敵であり、また自分が追放した旧主でもあり、単に面白いでは済まされませんでした。その後も義昭はしきりに夢に現れており、この密使の来訪も、夢であると勘違いしたのも無理からぬことでした。
光秀は実際疲れていました。信長から酷使され続けており、その先には佐久間信盛のような追放か、あるいは荒木村重のような殺戮かが待っていないとも限らず、思案もつい暗くなりがちでした。その密使の名は弁観といい、義昭の近侍であるようです。
会うかどうか光秀は迷いますが、恐らくは謀反の勧めであり、織田家の旧幕臣系の家臣の総帥的存在である我が身のことを考えれば、義昭が期待を寄せたのも無理からぬことでした。さらに義昭は細川藤孝を嫌っており、光秀を頼るのも道理と言えました。しかし光秀は荒木村重のことを思い出し、引き取らせるように弥平次に命じます。もし御教書を渡そうとしたら、目の前で灰にせよとまで言う念の入れようでした。
その後光秀は甲州征伐に参加します。長篠の戦後も武田軍の強さを信長は見くびっておらず、当主勝頼が人心を失い、武田軍の内部崩壊を見た上での作戦でした。この辺りの信長の戦略の見事さは、光秀も舌を巻くほどでした。この時の信長の陣は信州諏訪の法華寺で、そこにかつては武田の属領の者だった地侍たちが続々と集まり、織田家の威光ここに極まれるといった有様でした。
光秀はそれを目のあたりにし、信長の非凡な力を認めつつも、自分も少なからず努力しているという自意識があり、また心気が衰えた成果回顧的になっていて、ついこうつぶやきます。
「われらも多年、山野に起き伏し、智恵をしぼり、勇を振るった骨折りの甲斐、いまこそあったというものよ」
そこへ、この言葉を耳にした信長がやって来ます。信長は光秀のこういう賢(さかし)ら面を好まず、また虫の居どころも悪く、かつての佐久間、林、そして荒木といった家臣たちを放逐したことについて、どこかもやっとしたものを抱えていました。信長にしてみれば、光秀がそういう自分を皮肉っていると受け取れたのです。
「もう一度言え。—————おのれが」
と、光秀の首筋をつかみ、
「おのれがいつ、どこにて骨を折り、武辺を働いたか。いえるなら、言え。骨を折ったのは誰あろう、このおれのことぞ」
信長は光秀を押し倒し、高欄の欄干に頭を打ちつけ、離してはまた打ちつけを繰り返します。光秀は衆人の中でこういう仕打ちを受けることに耐えられず、信長に殺意を抱きます。
運命の天正10年がやって来ます。光秀も50代半ばとなり、また病気をしたこともあって心気とも衰え、夜も熟睡できなくなっていました。そんなある日、夢の中に前将軍足利義昭が現れます。しかしそれは夢ではなく、実際に義昭の密使が光秀の亀山城を訪れていました。
義昭の用件は、恐らく謀反の勧めであろうと光秀は察しがつき、その者が文書を取り出そうなら、焼いてしまうように命じます。同じような目に遭った荒木村重の二の舞は避けたいところでした。それと同時に、この義昭の陰謀好きにも光秀はうんざりしていました。
その後光秀は甲州征伐に向かいます。信長は長篠の戦いの後、敢えてそのままにして武田家の内部崩壊を待ち、しかる後に武田氏を攻め立てて滅亡に追いやります。光秀もこの時は、信長の戦略の見事さを思い知らされ、信長陣の法華寺には、かつての武田の臣であった地侍たちがやって来ます。それを見ながら光秀は、自分の骨折りもあってこそと口にし、これが信長を怒らせます。
ただでさえ機嫌が悪く、かつての功臣を追いやったことへの後ろめたさを覚えていた信長は、光秀を折檻し、光秀はこの時信長に殺意を抱きます。段々と本能寺の変が具体化されて行きますが、この法華寺、『真田丸』にも登場し、昌幸がしらを切り通したこと、そして、オネエぽい光秀が折檻されながらも、どこか嬉しそうにしていたシーンを思い出します。