第10回です。いよいよ栄一が8年ぶりに江戸へ出て、草莽の志士たちの仲間に加わることになります。
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栄一は日本国がどうなっているのか、江戸に行って自分で確かめたかった。実際開国以来、物の値段は上がり続けており、大老井伊直弼も暗殺された。井伊の跡を継いだのは安藤対馬守信正で、孝明天皇の妹和宮を降嫁させ、公武合体を目論んでいたが、和宮はもののふの頭領に嫁ぐことを嫌がっていた。栄一は仕事のない一月だけという条件で江戸を訪れるが、町は荒れ、8年前に父に連れられてきた時とはまるで違っていた。喜作と共に大橋訥庵の思誠塾を訪れた栄一は、地震にしろ大老暗殺にしろ天罰であるという言葉を聞き、なぜ神風が吹いて異人や病を吹き飛ばさないかと尋ねるが、塾生の一人校の顕三が神を冒涜するかと怒りをあらわにする。
訥庵は、既に神も助けを出す力がなく、水戸の慶喜が将軍になっていなければ、こうはならなかったはずだとまで言う。そして栄一にこう言葉を掛ける。
「よいか減らず口よ、われらが神風を起こすのじゃ」
そこへ長七郎がやってくるが、長七郎の件の腕には訥庵も一目置いていた。その後栄一は長七郎と喜作に血洗島のことを話し、お千代が喜作の妻、およしに教わって作ってくれたと守袋を見せる。確かにそれと喜作の物と色違いだった。ただ栄一は、子供がなかなか授からないのが悩みだった。
一方長七郎は幕吏(異国のイエスマンと化した幕僚のこと)の中で、今一番斬るべきは安藤対馬守信正だと口にする。水戸と長州が手を組んでその暗殺を企てていたが、どの藩も内紛を抱えていた。特に水戸は荒れており、それを考えれば草莽の志士である方が動きやすかった。河野は百姓である栄一を蔑むが、栄一はお前の言葉には胸を打たれた、俺も草莽の志士になると言う。その栄一は人を斬る稽古をさせられ、初めて真剣で人に見立てたわら束を切り刻む。その頃血洗島では、一月経っても栄一が戻らないことを案じ、まさは、早く子供でも生まれればいいのにと、細身の千代に当てつけるように漏らす。しかし千代は働きぶりがよく、市郎右衛門もゑいも感心していた。
そこへ栄一が帰って来る。江戸は物価の上昇がすごいこと、いい友ができたことなどを話し、ていへ土産を渡す。その後久々に千代と話し、ここと江戸の風があまりに違うと言って千代を背後から抱きしめる。しかし野良仕事をしている栄一の脳裏を、江戸で河野顕三が投げつけた侮蔑の言葉が掠めていた。
「百姓は鋤や鍬で土でも掘っていろ」
またこの頃から血洗島には、志士や脱藩浪士が立ち寄るようになって行った。惇忠もこのままでは、日ノ本は食い物にされると警鐘を鳴らす。
ここで家康公が登場。和宮降嫁に関して、婚姻さえうまく行けばと幕府は企んだこと、またいえやす自身も、かつて自分の娘である和(まさ)子を入内させたことの解説。当時の降嫁の行列は中山道を通り、全長50キロにも及んだ。
この降嫁の行列をもてなすため、血洗島でも人足を出すことになる。栄一はこれは幕吏の謀だと言うが、父市郎右衛門からこれは百姓の務めだと諭され、それが如何にも空しく感じられた。折しも千代が悪阻の症状を示し、子供ができたことがわかって、渋沢家の人々は喜ぶ。千代に取っても、栄一が喜ぶ顔を見るのは嬉しかった。自分はそんなに険しい顔をしているのかと栄一は尋ね、世の中を動かすのは武士だけではない、今の日の本にいは納得が行かないと言いつつも、それは身重の妻に言うことではないと悟る。千代は夫に、その考えも、また市郎右衛門が村や家族を思うことも、同じように尊いと言う。
文久元(1862)年10月20日、皇女和宮は江戸へ旅立った。篤君(篤姫)は家茂に、自分は一橋様を将軍にするために輿入れしたこと、家定はそれを理解したうえで慈しんでくれたこと、さらにこの和宮とのご縁は一橋様であればかなわなかったことを言って聞かせ、「お力になりもす」と家茂を励ます。片や血洗島では、役人たちの命令のもと、降嫁の行列のもてなしの準備に追われており、女たちは嫁入りと言うより戦だ、うちらの方が幸せだにと言葉を交わしていた。そして11月15日、和宮は江戸城へ入って家茂と初めて顔を合わせた。このことは思誠塾の面々を怒らせることになり、ついに安藤信正暗殺が計画されて、一橋慶喜を擁しようとするが、慶喜は動かなかった。
安藤暗殺に指名されたのは長七郎だった。その長七郎は血洗島へ向かい、その後ろ姿を千代が目撃する。長七郎は計画を惇忠や栄一に打ち明け、安藤を殺した後は自分も切腹する、自分は武士になると話すが、惇忠はそれは無駄死にであると指摘する。栄一もそれに同意し、幕府をどうにかしない限り何も変わらないと、長七郎を思いとどまらせる。そして惇忠も幕府転覆の行動を起こすが、それと呼応するかのように、怪しげな行商人が血洗島をうろつくようになっていた。どうやら隠し目付のようだった。長七郎は上州に逃げ、やがて安藤暗殺未遂事件(坂下門外の変)が起こるが、河野をはじめ何名かの塾生が死亡、訥庵は捕らえられた。そしてある夜、栄一は村の者から、長七郎が江戸へと向かったことを聞かされる。
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幕府の仕組みに憤りを感じる栄一が、江戸で長七郎や喜作のいる思誠塾に入門します。そこで目にしたのはかなり急進的な、ある意味カルト的ともいえる尊王攘夷思想でした。しかしどう考えても、老中を斬ったところで何かが変わるわけでもなく、逆に日本に不利になる可能性も高いのですが、この後の倒幕、明治維新に至るまでには、こういう劇薬的な要素もまた必要ではあったでしょう。しかもこの当時水戸は分裂、薩摩も急進派がクーデター計画を起こして頓挫(寺田屋事件)していました。後に長州も急進派が暴走し、禁門(蛤御門の変)を起こすことになり、日本のあちこちで不穏な空気が漂っていました。
栄一も幕府をどうにかしたいとは考えたものの、江戸で所謂志士たちの心意気と同時に、その志士と呼ばれる武士たちから、自分が百姓の身分であることを実感させられます。そして、大橋訥庵から目を掛けられていた長七郎もまた、武士の身分に憧れており、安藤信正を斬って自分も腹を切ると豪語します。しかし威勢はいいものの、それでは無駄死にであると惇忠は諭します。流石にこの人はその辺りはわかっていたようです。捨て駒になるのではなく、ますは上州に行かせた惇忠の選択は、坂下門外の変が未遂に終わったことから見ても正しかったと言えますが、その長七郎はしばらく潜伏した後、また江戸に出ようとしていました。
そして和宮降嫁です。この大河で毎度のように感じることですが、こういう皇族や将軍家の描き方が、やはりちょっとどうかと思います。これが慶喜が主人公であったのなら、篤君(篤姫)にしても和宮にしても、もう少しキャラが立った描き方になると思うのですが、栄一が主人公ということもあってか、あるいは庶民層がメインになる朝ドラ的構成(血洗島の描き方はこれでいいのですが)のためか、どこかぼやけた感があります。それと篤姫が全くイメージが変わらないのが残念。既に天璋院となっているのですが…。篤姫といえば、栄一と喜作が色違いの守袋を持っているのは、『篤姫』へのオマージュなのでしょうか。