信長軍は越前へ入りますが、その華麗さに朝倉軍は驚きます。確かに越前も大国ではありますが、この当時、信長の本拠地と言うべき尾張は商業先進地であり、武具の華やかさは越前とは比較になりませんでした。その当時はまだ珍しい揃いの軍装で、しかも大将である信長自身のいでたちがまた、万事派手好みの信長にふさわしいもので、光秀自身
「なんと傾(かぶ)いたるお人か」
と思ったほどでした。
信長は絵画工芸を好み、それゆえに自分の軍隊を、あたかも芸術品のようにしつらえたと言えなくもありません。さらにこの軍は華麗さのみならず、強さに於いても朝倉軍の比ではありませんでした。手筒城は簡単に落ち、次は敦賀平野にある金ケ崎城を信長は攻めます。この攻撃に当たっては、かつて義昭がこの城に匿われていたことから、この地をよく知る光秀に絵図を描かせます。光秀は絵の具を借りてすばやく絵図を完成させ、信長に渡します。この図には城の周囲にある海、さらに船の帆が描かれており、その洒落っ気に信長は気をよくしたようです。
信長は光秀に、こう尋ねます。
「そちにすりゃ、旧主家を討つことになる。どんな気持だ」
光秀は特別な感情は抱いていないと答えますが、無論そのようなはずはありません。かつてはこの家から禄を受けていた上に、旧知の人物もいましたし、どこかぎくしゃくとした朝倉家の食客時代に、味方となってくれたくれた家臣もいたわけで、彼らと、戦場で顔を合わせたくないというのが光秀の本音でした。
織田の兵たちは、金ケ崎城目がけて鉄砲玉を放ちますが、濠の手前で落ちてしまいます。業を煮やした光秀は自ら彼らに撃ち方を指南し、このおかげで、火力に於いて織田軍は圧倒的有利になります。しかし光秀に取っては、朝倉家の本軍が、いつ目前にある木の芽峠を越えて、砲弾を撃ち込まれつつある金ケ崎城の救援に来ても不思議ではないはずなのに、一向に現れないことでした。
「一乗谷は何をしている」
敵ではあるものの、光秀は朝倉家の作戦のまずさに苛立つ思いでした。やはり古巣である以上、特別な感情を抱かずにはいられなかったようです。
結局金ケ崎城は、城主朝倉景恒が開城降伏を申し入れたことで、一日で落ちてしまいます。信長も越前攻めの最前線基地として、この城がほしかったせいもあり、これを許します。光秀は、朝倉家の不甲斐ない負け方に腹が立つ思いでした。また陣中では、光秀がかつて朝倉家にいたことを知っている他の将校が、その件で話を振って来ます。朝倉家が強ければ、光秀もかつてその家に仕えていたことを誇らしく思うのでしょうが、この場合は逆でした。しかも一乗谷では、総大将の義景が出馬に乗り気ではありませんでした。
こういう時、義景を叱りつけてでも前線に送り込む老臣でもいれば、また話は違ったでしょう。しかし門閥主義が徹底していて、しかも器量のある人物がおらず、故例どおり出馬なされよと言う者があり、形ばかりの出馬をした義景は、結局は様々の理由をつけて一乗谷に戻ってしまいます。これでは士気が上がるわけがありません。救援軍の指揮は朝倉一族の景鏡(原作ではかげますという振り仮名があるが、実際はかげあきら)に委ねられるものの、この景鏡も府中(武生)まで行ったものの、そこに留まったままでした。朝倉家のこういう姿勢は、もちろん信長の耳に入っていました。
将軍義昭に味方した朝倉氏を、信長が攻撃します。光秀は織田軍の一員として従軍するも、かつて自分も仕えていた家でもあり、なかなか心境は複雑です。現に金ケ崎城が攻められている時、朝倉本軍はいつ来るのかと、敵ながらまるで我がことであるかのような思いを抱きます。しかしその朝倉家の城がある一乗谷では、当主義景が戦場行きに気が乗らず、かと言って、それを諫めるだけの忠臣もいない有様でした。門閥主義のデメリットであり、そして光秀も散々この門閥重用に泣かされて来たのです。
ところでこの朝倉攻めには、徳川家康も参戦しています。これは信長から既に通達が行っていました。この元亀とそれに続く天正年間は、信長を始め秀吉、光秀そして家康と、登場人物が戦国オールスターズとでも言うべき華やかさであり、その一世代上に当たる武田や上杉、あるいは北条氏康に比べて、より近世に近くなって行きます。この時代が大河ドラマで好まれる(と思われる)のもむべなるかなですが、しかしながら、あまりにも多く大河に取り上げられた感もあります。