『峠の群像』総集編第2巻前半です。第2巻すべてを投稿しようかとも考えましたが、長くなりそうなのでまず前半部分だけにしておきます。
内匠頭切腹に伴い、赤穂城内に籠城の噂が広まります。元々これは藩の知恵者がそういう噂をばらまき、武士の建前を取り繕い、その後他藩の禄を得やすくするためでした。しかしそれを巡る評定の最中、石野七郎次は一人開城を主張します。このため籠城か否かの決定は翌日に持ち越しとなります。
その後大石屋敷を、近松門左衛門と嶋屋美波が訪れ、水を所望します。さらに近松は大胆にも、内蔵助に籠城か開城かを尋ねます。近松は、このところ改易で籠城した家はないと言い、内蔵助はならば開城かなといなします。近松は、浅野家は尚武の家柄故籠城であろうと答え、このところ時代は忠臣を求めており、浅野家が鑑になれば世の中は変わると言います。
一方石野は素良に、赤穂藩の負債は全部返済すると約束し、そして改易となった以上、一緒にはなれないことを伝えます。素良と石野は恋仲になっていました。一方内蔵助は、江戸から戻った片岡源五右衛門に会い、浅野内匠頭の切腹は庭先であったこと、さらに吉良上野介には何の咎めもなかったことを知って、そのまま浜辺に行き、海水で何度も顔を洗います。
翌日改めて評定に臨んだ内蔵助は開城を唱え、内匠頭の切腹は自身の不調法のため仕方ないものの、これはあくまでも両者の喧嘩、吉良にも当然咎めがあるべきとしつつも開城し、浅野大学を立てて再興を願うと主張します。それでは人前が立たぬと言う者たちを前に、家老である自分の言に従うと言ったのは誰だと内蔵助は一喝します。一方石野は、禄を失った人々の救済と浅野家再興のために、製塩と販売の組織を作ることにします。
大坂では、浪人となっており、近松の芝居小屋に居候を決め込んでいる不破数右衛門に、美波が酒を持って行くものの、不破は急に美波に太刀をかざします。しかし美波も肝のすわったもので、危ないやおまへんかと火箸で太刀を叩きます。
元禄14(1701)年4月、城の明け渡しの日がやって来ました。この時内蔵助は吉良への処罰と浅野家の再興を、3度にわたって城受け取り役の目付に嘆願します。この3度続けてというのは非礼なことであり、その場で処罰されても致し方ないものでした。しかし目付たちは、このことを飛脚で江戸に知らせます。さらに、うち1度は聞かなかったことにすると、目こぼしをしてくれました。しかしながら、この件を知った老中が綱吉に宛てた文書には、城の掃除と明け渡しのことのみが記されており、大石が命をかけた直訴は無視されていました。また内蔵助の妻理玖も、夫にもしものことがあった時のために自害を考えます。
竹島屋では、素良が赤穂の塩を得るべく、石野に貸付をしたことを番頭が懸念します。その石野たちは、やはり目付たちから、お前たちは士分ではないから、すべて自分たちの裁量でやれと言われ、内蔵助の口添えに違いないと思った石野は、浜にいた内蔵助に礼を述べます。しかし内蔵助は、そのようなことは知らないと答えます。
さて片岡源五右衛門は、江戸で町人に身をやつして、一人仇を取ろうと吉良の出方を窺っていました。その吉良は、悪くもない自分が悪人にされているであろうことを気にかけていました。一方で両国に居を構えていた堀部安兵衛は、片岡のことを聞いて飛び出し、片岡が、吉良の行列に斬りかかろうとしている姿を目にします。片岡は駕籠を槍で一突きするものの、中は無人でした。
そして赤穂では、内蔵助が藩を出るという噂が飛び交います。石野たちは内蔵助を見送り、餞別を渡しますが、吉良を討つということに関しては難色を示します。そんな石野たちに内蔵助は言います。
「己の信ずるところがまことだ」
そして内蔵助は供の八助と船に乗り、二度と赤穂へ戻ることはありませんでした。
その頃将軍綱吉は、虎や犬などを可愛がる一方で、執務にはさほど関心がない様子でした。柳沢吉保が吉良の閉門を打診すると、自分の裁きを覆すのかと不満げです。側室の町子は、赤穂の浪士に吉良を討たせたら、武士たちのいい手本になるとしれっと口にします。そして大坂では、近松や美波が飛脚の伝平と話し込んでいました。
伊勢亀山の28年かけての仇討について話す3人でしたが、芝居小屋の楽屋の片隅にいた不破数右衛門は、仇討話を吹聴するのは町人だけだと言い、武士と町人の間で話が噛み合いません。その直後、大石が江戸へ行ったという話が飛び込みます。近松は不破に、吉良を討つ気はないのかと尋ねます。そして江戸では、赤穂藩日雇頭前川忠太夫の屋敷に藩士たちが集まり、吉良を討つべきか否かで紛糾しますが、大石は「ご公儀の判断を待つ」とだけ答えます。
(第2巻前半終わり)
赤穂藩の改易が決まり、籠城か城を明け渡すかで評定が行われます。籠城派が多数を占めるものの、結局開城と決まり、これが内蔵助にも石野にも、無論他の藩士にも大きな影響を与えることになります。内蔵助にしてみればまず幕府の判断を仰ぎ、再興が可能であればそうしたいと考えており、主君に殉ずるのはその後でも構わないと思っていました。また石野は、恋仲となっていた素良と添い遂げるのは無理であると思いつつ、製塩で藩士の救済をし、再興の費用を稼ぐと決意します。
そんな中大坂の近松門左衛門は、もし浅野家が籠城したら武士の鑑であると、内蔵助を前にずけずけと言います。そして江戸でも、柳沢吉保の側室町子が、赤穂の浪士が吉良を討てば武士たちの手本になると言います。このようなセリフから、江戸幕府の文治政治が定着し始めており、武士たちが官僚化していることがわかります。無論江戸幕府というのは、戦国の悪習を断つためのものでもあったわけで、「武士の手本」になるようなことをしたらしたで、それなりの処罰が下るのは必至でした。
元々徳川綱吉は、この文治政治を推し進めた将軍でした。さらに朝廷を重んじる人物でもあり、内匠頭に対する厳しい処罰も、彼が朝廷からの使者たる勅使の饗応役であるにもかかわらず、式次第が台無しにされたことが一因です。但しこの人物は、将軍としての任期の後半に於いては、自然災害が重なったことから、施政者が善政を行わないからこうなるといった空気が醸成されていたようです。これは綱吉に取っても不運でした。無論だからと言って、虎や犬ばかりに関心を寄せていたかどうかは疑問ですが。
そのような中で、江戸の藩士たちからは吉良討つべしとの声が上がります。片岡源五右衛門にいたっては、一人で吉良を討とうとする有様でしたが、当然ながら裏をかかれてしまいます。このような中、内蔵助はひたすら幕府の判断を待つことにしました。しかしながら、肝心の幕府の中枢部に彼の意見が届いていない以上、これは如何ともしがたいことでした。
それから嶋屋美波、彼女はいつも近松の側におり、つまりは常に近松の仕事場である芝居小屋に入り浸っているわけです。そこで寝泊まりしている(のでしょう、多分)不破数右衛門に、いきなり太刀を突き付けられても、動じるどころか危ないと火箸で叩く美波ですが、この辺りに何やら上方らしさが感じ取れます。無論近松が慌てて止めに行くわけですが、この近松も赤穂に堂々と乗り込む辺り、なかなか強かです。
ところで吉良役の伊丹十三さんが茶器を扱っているシーンに、『国盗り物語』の足利義昭がだぶります。