『若い人』に関して5回目の投稿です。10月に入って、5年生の修学旅行の季節を迎えます。日程は8日間で、向かう先は主に東京、名古屋、大阪をはじめ鎌倉、京都、奈良、伊勢といったところで、それに加えて日光や松島、横浜や横須賀といった場所が入ったりもします。しかしこの当時は新幹線などはもちろんありません。それどころか、東京までは一昼夜半船と列車となっています。この後の日程の割り振りはどのようになっていたのでしょう。それはともかく、女学校ということもあり、あれを持って行っていいか、これはダメかなど事前の説明の時点で既ににぎやかです。
出発当日、間崎は江波母子に貰った靴を履いて行きます。そしてこの旅行で、江波は間崎の巾着になることを公認します。つまりその人物に常に付き添っているという意味で、腰巾着と似たような意味ですが、それはともかく。青森発上野行きの列車の中で眠っていた間崎は、田代ユキ子から起こされます。江波が泣いていると言うのです。母親がいないからというのがその理由ですが、これは当たり前の話であり、普通この年齢であればわきまえているはずなのに、子供っぽい感情をむき出しにしてしまうのが江波らしいと言えます。
間崎は江波を叱り、その後話をして落ち着かせます。その後列車は上野に到着し、一部の生徒たちを迎えに来た親戚に引き取らせますが、ここでまたひと悶着起きます。しかもその場にやって来た黒のソフト帽の男が、橋本の叔父で共産主義に傾倒している人物とわかり、橋本との関係を聞かれます。それやこれやで東京の第一夜は更け、翌日宮城(皇居)へ向かいます。この時の生徒たちの会話の場面が、後に物議を醸すのですが、それはまた改めて書くことにします。しかもこの後、やはり引率の山形先生の話に付き合ったり、自由行動の生徒たちを見て回ったり、橋本に手紙を書いたりとあわただしく時間が過ぎて行きます。
この日の夕方から雨が降り出し、生徒たちは雨の中を東京駅へ向かいます。やはりこの時代は、そこそこ強行日程のようです。親戚の家に行っていた生徒たちも戻り、これから西へ向けて移動することになるのですが、この時の江波の存在は、そこまで気になるものでもありませんでした。記録班の日報によれば、鎌倉→琵琶湖と比叡山→京都→大阪→奈良→鳥羽と伊勢神宮といった具合に、かなり駆け足であちこちを回った跡が窺えますが、この日報の後半部分は江波が書いており、間崎をうならせた文才があちこちに見て取れます。
ともかくスケジュールをこなした生徒と引率の先生たちは東京へ戻ります。そこには校長のミス・ケートが出迎えていて、洋食をご馳走してくれるのですが、無論中にはそれが苦手な生徒もいて、宿の夕食でご飯のお代わりをする者もいたなどとある辺り、時代を感じさせます。ともあれこれが東京最後の夜であり、生徒たちは買い物の時間を与えられます。一方間崎は橋本からの手紙を受け取りますが、これはいささか愛想のない、社交辞令のように間崎には映ったようです。
ところでこの修学旅行に行く前に、生徒がノートに先生たちの渾名をいたずら書きして叱られる場面があります。その中に「ニャアちゃん」というのがあり、これが間崎のニックネームです。間崎自身は意識していなかったにせよ、かつて「何々せニャアならんと思います」という表現を多用したのが原因なのですが、どう見ても猫を連想せざるをえません。実際生徒たちも同じことを考えたようで、しかも箸が転んでもおかしい年齢でもあり、その後、キャットという言葉が出て来ても、生徒たちは笑い出すようになってしまいます。