織田家に仕えることを決めた光秀ですが、すぐに織田家に向かうことはしませんでした。まず一乗谷を引き払った後、かの称念寺に身を寄せます。この人物は決意に時間がかかるものの、一旦決意したとなると、その後の動きは実にスムーズでした。称念寺では猪子兵助に会い、いずれ支度が整い次第参ると言って、その時に道三の話題になります。この道三が、聖徳寺(作中では正徳寺)で信長に会見した時、この兵助も道三に随行していました。
この時の、寺へ向かう信長の服装に呆れた兵助は、彼をたわけと決めつけ、いずれは道三が尾張を攻めて我が物にすると思うわけですが、道三は違っていました。
「たわけなものか。いずれおれの子供たちはあのたわけの門に馬を繋ぎ、この美濃は、信長への婿引出物になるだろう」(原文では「たわけ」に傍点)
と言っており、そして実際信長は美濃を制して引出物になったと兵助は苦笑します。
この兵助はそのことを悔やみますが、光秀に言わせれば、それは人間が違うというだけの話でした。兵助が道三ほどの眼力を持たなかったとしても、そこまで悔やむことはないわけです。その後光秀は扶持を悉く金銀に換え、それらを荷駄に積んで越前を後にし、秋の暮、雪が本格的に降り始める前に一族郎党を率いて敦賀へ向かいます。光秀は客分であったため、扶養する家来が少なかったのはこの場合幸いでした。この頃義昭と名を改めた義秋に暇乞いをした光秀は、途中で土産物を買い求めます。
これには光秀の自負心の強さもありますが、何よりも濃姫と従兄妹であり、幕臣でもある以上、それなりの品物を買い求めて美濃へ向かうつもりでした。三国港で葡萄と鮭を買い、濃姫へは紙製品、硯や香炉などを買って、その後岐阜城下へ入ります。岐阜では常在寺に宿泊しますが、この常在寺は道三ゆかりの寺でもありました。かつての山崎屋庄九郎が、美濃で最初にわらじを脱いだのがここであり、光秀はここに「明智十兵衛光秀宿」という札をかけさせます。
ここの住持(住職)は、道三が初めて美濃に来て世話になった時の日護上人から三代目の日威でした。日威はかつて道三が、妙覚寺で日護上人と共に修行をしたこと、その後還俗し、奈良屋の入婿になったりもしたが、野望を果たさんと美濃に向かい、上人の実家の長井家に推挙したのが、そもそもの道三の武士としての生活の始まりでした。光秀は、もし道三がいなければ、恐らく美濃は今とは違っていたものになっていたと口にします。
日威は、土岐家がまだ続いていたという意味かと問いますが、光秀はそうではなく、既に美濃は先代信秀の時に、織田の手に落ちていたと答えます。ちなみにこの常在寺は、一度は衰えたものの、濃姫が父道三の供養料を納めるようになったことから、危地を脱しています。そして光秀は、宣教師が「宮殿」と表現した岐阜城で、信長に目通りすることになります。信長の第一印象は「頭髪(あたま)のうすい男だな」というものでした。
あの頭に触りたいという衝動は、流石に年齢も年齢であるということで抑えたものの、光秀にしてみればおよそ「常人の声ではない」声で、土産物の礼を述べ、近く寄るように勧めます。無論光秀としては室町風の作法に則り、上を恐れて、進むふりをして進みかねているという形を取ります。しかし信長にしてみれば、光秀のこの奇怪ともいうべき作法は大いに好奇心をそそり、お前は脚が悪いのかとまで言い出します。
光秀は、この作法をしていることが馬鹿馬鹿しくなり、そのまま膝を立てて進み、畳二枚ほど進んだあたりで平伏します。信長は面を上げよと命じ、光秀はその言に従って顔を上げます。それを見た信長は「奥(濃姫)に似ている」と思い、さらにその後会話を交わすことで、光秀の典雅さ、天下情勢に関する詳しさ、さらに軍楽に秀でていることなどから、これは思わぬ買い物をしたと口元をほころばせます。
いよいよ光秀が美濃に入り、信長に目通りします。その前に土産物を献上し、道三ゆかりの常在寺にも足を運ぶというそつのなさでした。そしていざ拝謁という時に、この両者の違いが現れます。光秀にしてみれば、たとえば将軍に拝謁する時と同様、室町風の作法は不可欠なものと考えていたものの、信長にはそれはわかりません。仕方なく光秀も、信長に合わせて行くことにするわけですが、これが後の両者の関係に大きく影響することになりそうです。
ところでこの信長の
「頭髪(あたま)のうすい男だな」
これは総集編にも出て来ますが、それほど光秀の頭髪は薄くはありませんでした。それはともかく、この作品では、信長は自分の感じたことを遠慮なく口にする人物として描かれており、光秀はいささか違和感を覚えます。ともあれ、二人の初めての会見は、最初からそれぞれの違いを浮き彫りにしたものとなったようです。