琵琶湖を落ち延びて行く義秋一行の前に、別の船が現れますが光秀は落ち着いたものです。それは、弥平次を一足先に堅田衆との交渉に行かせていたからでした。しかし本当に味方なのかどうか、それを探るために光秀は、和田惟政の配下で伊賀者の服部要介と共に探りに行きます。褌姿で、背中には太刀を括り付け、水面を泳いで行きますが、要介は伊賀者の勘で、彼らがどうやら敵であるらしいことを突き止めます。
そこで光秀は、単身敵の船に乗り込むことにします。要介は止めますが、光秀はこう言います。
「伊賀者は命を惜しむ。要介、古来、伊賀の出の者で天下に名をなした者がいないのはたったその一事によるものだ」
やがて光秀は堅田衆の船に乗り込み、自分の名を名乗って、公方様のお味方につくように決心を固めよと諭します。
堅田衆も、最初は義秋の首が目当てでした。しかしその首を三好氏に届けるべきか、いっそのこと公方様に仕えた方がいいかで迷っており、要介が敵であると感じ取ったのは、その迷いがあったからとも言えます。結局彼らは味方につくことを決め、光秀は要介に合図して、義秋にこのことを伝えさせます。夜明け前に一行は上陸しますが、用心のためにどこかに投宿することもせず、そのまま若狭へと北上し始めます。
若狭では武田氏(若狭武田氏、甲斐武田氏と同じ血統)を頼るものの何せ小大名でもあり、やはり目指すべきは越前でした。このため光秀は藤孝と先発して越前に入り、出迎えの準備をするまでに漕ぎつけましたが、当主義景が義秋を迎えたのは、何らかの政治及び軍事的意図があるわけではなく、旧家の当主ならではの人のよさと言うべきものからでした。しかし一乗谷は土地が狭く、公方の住まいとしてふさわしい建物もありませんでした。
そこで義秋の住まいは敦賀と決まりました。敦賀は交通の要所であり、また何かあった際に海上に出られること、さらにここの金ヶ崎城は防御に適した城であることからこの地が選ばれ、光秀は儀仗用の軍勢の先駆として若狭に向かいます。この時数えの39歳の光秀ですが、雰囲気はまだ若々しげで書生のようでもありました。とはいえ書生でない証拠に、200人の軍勢を引き連れており、そこそこの貫禄です。しかしその大部分は、朝倉土佐守からの「借り物」でした。
こうすることにより、朝倉家における自分をよく見せたい、特に義秋や藤孝からそのように思われたい、ある意味箔をつけたいという気持ちから兵を借りたわけですが、その軍は金ヶ崎城へと入って行きます。そして当の義秋は、自分のために義景が京へ軍勢を出してくれるかを気に掛けていました。光秀は、朝倉家がそういう先取りの気風を好まないことから、義秋自ら義景を説くように勧めます。義秋の性格上、それはありうることでした。
数日後、義景が金ヶ崎城にやって来ます。城の月見御殿に酒宴の席を設け、一乗谷から連れて来た美女に接待をさせたのですが、この義景自身妙な癖がありました。この人物は、酒が入ると舞を始め、ついには自分でも何を舞っているのかわからなくなってしまいます。その合間に義秋の御前に行き、
「御酒を頂戴なしくだされたし」
とせがむのですが、この状態では義秋は京に軍勢を出してくれとも言えません。
たまりかねた義秋は、話があるから女たちを下がらせ、鳴り物はやめてくれと義景に言います。しかし義景はその言葉の意味を理解できず、何かこの公方に対して粗相があったのかと思い、さらに女たちに命じてもてなしをさせます。ついに義秋は光秀を呼び寄せ、このように尋ねます。
「あの男、あの酔態は本性か手か」
つまりあれが地なのか、それとも策略があってのことなのかと訊いたわけですが、光秀は言いづらそうに、あれが本性であると答えます。それを聞いた義秋は、義景に失望します。
何とか堅田衆を説き伏せ、琵琶湖を渡って若狭へ向かった義秋一行です。若狭で一旦武田氏を頼った後、今度は大本命とも言うべき朝倉氏を頼り、京へ出兵させようと義秋は目論んでいました。しかし義景は、公方を利用して自分が名を挙げようといった野心はなく、ただ流浪の公方を匿いたいといった感情があり、そのために義秋を金ヶ崎城に住まわせます。自然その先の方向性が、義秋や光秀が思い描いていたのとは違うものになります。
しかも義景は、酔うと舞を披露する癖がありました。これでは酒の場を借りての密談ができないばかりか、義秋が何か話をしようと持ち掛けると、女たちの接待がお気に召さなかったのかと思い、よけいにその場が騒がしくなる一方です。しかも義景に何か策があって、このようなことをしているのならまだしも、光秀によればそれが本性であるということで、義景は義秋をかなり失望させてしまいます。