覚慶を将軍に立てるには協力者が必要でした。光秀と藤孝は奈良の油坂にある、茶道具を扱う鎌倉屋の主柏斎に協力を求めます。奈良では顔の広い柏斎は快く応じ、三好や松永の監視を潜り抜けて一乗院へ入るべく、賄賂なども使って覚慶に会い、黒釉の小壺(肩衝)を献上します。実はその中には紙切れが入っており、藤孝の字で脱出を促す文章が書かれていました。しかも柏斎は、脱出の一手段として仮病を使い、医師を招き入れることを勧めます。覚慶は、自分に新たな運命をもたらしたこの小壺に鎌倉黒と命名しますが、かつて流人だった源頼朝に自らを重ね合わせたようです。
しかし他の協力者、特に幕臣たちはこの提案に乗り気ではありませんでした。唯一奈良にやって来たのは、義輝の小姓だった一色藤長で、脱出後の覚慶を、甲賀の和田惟政に匿って貰うよう藤孝が提案します。藤長は早速甲賀に旅立って約束を取り付け、更に京の医師米田求政にも連絡がつきます。この米田は法眼であり、門跡を診るにはふさわしい人物でした。光秀は無官であり、別室で控えるのがならわしですが、特別に薬箱持ちとして、覚慶の寝所に入ることが許されました。
光秀が米田の供をし、覚慶の診察をして帰って行く、これが4日間続きます。そして5日目、いよいよ決行の日がやって来ます。米田も覚慶にそのことを伝え、まずは手筈通りに全快祝いとして、警備の武士たち(三好・松永の兵)に酒を振る舞い、彼らが眠り込んでしまったのを見計らって、米田と共に3人で塀を乗り越えて脱出します。無論覚慶はこういうことに慣れておらず、光秀が背負って夜道を駆け、二月堂で無事藤孝そして藤長と落ち合います。
今度は藤孝が覚慶を背負いますが、三好・松永の兵も感づいたらしく、松明を持った騎馬軍団が彼らを追跡しているのがわかります。朝倉家の客分で、実質的には牢人である光秀に取って、功名を挙げるまたとない機会であり、自分一人で斬り防ぐことにします。まず銃卒を斬って鉄砲や火縄、弾袋などを奪い、それで銃卒たちの前を行く将校を倒します。さらに松林に入って動き回ることで、自分一人ではなく、5人か6人はいると相手に錯覚させてから、3丁の銃をうまく使い分けて、相手の騎馬武者を打ち倒します。
これにより、相手には混乱が生じます。光秀はその隙を見計らって、恐らく乗り手を失って駆けて来た馬にそのまま乗り、山城の木津に入ります。そこで寺に入って庫裡で粥を食べ、しばし睡眠をとりますが、どうやら僧が訴え出たらしく、周囲に人の気配がします。光秀は寝入っているように見せかけて、周りにいる5人の武士の1人を斬り、恐らく彼らがつないでいた馬に乗り、日暮れになって加茂に入り、馬を川に落とした後なおも歩き、崖をよじ登り、樹海を進んで3日目に信楽に入って、一軒の百姓家を訪ねます。
ここで光秀は財布の銭を見せて食物を分けて貰います。百姓家の主によれば、その地は多羅尾四郎兵衛尉の支配する集落でした。この多羅尾家は古い家柄で、光秀はその屋敷へ向かい、四郎兵衛尉は光秀の諸国の話に耳を傾け、しかも元々丁寧であった言葉遣いがさらに丁寧になり、驚くべきことに周暠の暗殺まで、光秀以上に詳しく知っていました。所謂甲賀衆の、将軍の信頼の篤さは有名でしたが、かつて将軍義尚を夜襲した鈎ノ陣の際には、それとは反対であったと四郎兵衛尉は答えます。また四郎兵衛尉は、覚慶の話題を持ち出します。
光秀はそれとなく話題を変え、詩歌管弦の話をしますが、四郎兵衛尉はそちらにも詳しく、しかも将軍家を始め伝統的な権威を慕う人物でした。光秀は一晩考えた末、思い切って四郎兵衛尉に事実を打ち明けます。無論これは内密のことでした。尚多羅尾氏はこれがもとで織田家に仕え、秀吉にも仕えることになります。秀次事件に絡んだため多くの領地を取り上げられたものの、江戸時代は徳川幕府のもとで、甲賀郡の代官を務めています。
さて覚慶を連れ出したものの、三好と松永の兵が自分たちを追っていることがわかり、光秀は単独で何ともアクロバティックな戦いを披露します。その後甲賀までを馬と徒歩で逃亡し、今度は多羅尾疲労兵衛尉に出会います。尚米田求政の「法眼」という官職ですが、元々は僧に与えられたもので、最高位の法印の次の位です。また自分一人で斬り防ぐと申し出た時、ふと信長の桶狭間も、一か八かの正念場であっただろうと思いを巡らします。何やら、常に信長と自分を比較したがる、あるいはそうせざるを得ない人物のようにも取れます。