信長は伊賀を制圧しますが、信長軍に刃向かった中には葛籠重蔵もいました。その後信長は武田勝頼を攻めて武田家を滅ぼし、本陣とした寺に勝頼の愛馬が届けられて、それを嫡子信忠に贈ることにします。それを見ていた光秀は、この十年間骨を折った甲斐があった、織田家の武運もこれまでかと思うこともあったと呟きますが、悪いことに信長の耳にこれが入ってしまい、信長は骨を折ったのはこの自分だと、光秀の頭を高欄にしたたかに打ち据え、光秀はこれで信長に憎しみを抱くようになります。
しかも丹羽長秀から、信長が石見と出雲を与えると伝えられるも、その代わり今の領国の丹波と近江は召し上げられ、その間は無禄となることが決まりました。光秀はこのことに関して大いに悩み、織田家で生き残るためには、信長からこき使われまくることを考え、思いつめた表情になります。これには濃姫も懸念を示しますが、信長は光秀ならやる、林通勝(秀貞)や佐久間信盛とは違うと楽観していました。その後光秀は、愛宕での連歌の会に参加し、発句を求められて次のように詠みます。
「時は今 雨が下しる 五月かな」
一見五月雨を詠んだかに見えるこの句に、同席していた里村紹巴は、光秀が天下を取ろうとしている意志があることを悟ります。
この天正10(1582)年5月29日、秀吉の中国攻めに加わる予定だった信長は、濃姫やわずかな供を連れて本能寺に入ります。そして6月1日光秀の軍勢が丹波亀山城を出て、途中腹心の家臣のみに自らの思いを打ち明けます。その頃信長は濃姫の膝枕で、今までのこと、これからのことをあれこれと話し合っていました。さらにこの時「この後の仕事は、俺でなくてもできるかも知れん」とも言い、そして小歌を歌います。
「死のふは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ」
方や光秀軍は6月2日の午前4時頃桂川を渡り、ここで光秀は全軍にこう号令します。
「我が敵は備中に有らず、本能寺に有り」
そして軍勢は本能寺へ雪崩れ込み、ことの次第を知った信長はしばし呆然としつつも、「是非に及ばず」と洩らし、多勢の光秀軍を相手に矢を射るものの、弦が切れ、槍で明智の兵に立ち向かいます。また武士の身分でない者や女たちは寺を抜け出させますが、濃姫は一人後に残って敵と戦い、明智の兵の槍にかかって落命します。信長も最早これまでと悟り、奥の一室で自刃して果て、49年の生涯を終えます。
このことを知った葛籠重蔵は気が抜けたようになり、また備中の陣にいた秀吉は大泣きします。訃報を伝えた黒田官兵衛は、天下を取られる千載一遇の好機が到来したと言い、秀吉に信長の仇を討つように促して撤退、所謂「中国大返し」が行われます。一方光秀は、京から近江に戻る途中で盟友細川藤孝の裏切りを知りますが、妻お槇は、信長は悪業と言われつつも己を信じたと言い、夫にも己を信じるように言います。その藤孝は髪を下ろして幽斎と名乗り、同じく髪を下ろした嫡男忠興に、世の中の移り変わりを見るように諭します。
光秀と秀吉の戦いが始まります。雨の中のこの戦は明智勢に不利となり、光秀は落ち延びつつもまだ生きて天下を取る夢をあきらめずにいました。しかしある農民の竹槍が、その夢を打ち砕きます。脇腹を突かれた光秀は抵抗を試みるも、やがて力尽き、その場に倒れます。齢55でした。
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いよいよ物語のクライマックスです。伊賀を攻め、武田を滅ぼした信長に最早立ち向かう者はおらず、それを見た光秀もつい自分の苦労を口にし、信長の怒りを買って折檻されます。比叡山に続いて2度目の「光秀しばき」です。これにより、光秀の中に信長への憎悪の念が芽生えます。さらに石見と出雲を与えられるも、この2国は毛利の所領であり、しかも今までの所領であった丹波と近江は召し上げられることから、2国を奪い取るまでは無収入となります。光秀は追いつめられ、このままでは信長に酷使されるという思いを深めて行きます。
その光秀の決意が示された最初の場が、愛宕百韻でした。この時の光秀の発句に、連歌師里村紹巴は謀反のにおいを感じ取ります。尚この中には出て来ませんが、原作では、「時は今」に「土岐は今」と掛けていることも紹巴は見抜いていました。その光秀は6月1日に丹波亀山城を出、その後一部の家臣に決意を打ち明けるに至ります。
しかし信長は、光秀なら石見と出雲を取れるであろうと考えており、濃姫と本能寺で今までのこと、今後のことをのんびり話し合っていました。しかしこの時の
「この後の仕事は、俺でなくてもできるかも知れん」というのはかなり示唆的です。
また小歌(小唄ではありません)の
「死のふは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ」(新訂信長公記)
は
「人は誰でも死ぬものであり、死後の語り草として、生きているうちに何をしておこうか。後の人は、それを思い出として語ってくれるだろう」
といった意味です。これも数時間後に迫った本能寺の変を思わせる言葉です。
そして光秀の本能寺奇襲。所謂非戦闘員は寺を出ますが、濃姫は一人残ってこの場で明智の兵に討ち取られます。信長は弓の弦が切れ、槍でその場をしのぐものの、明智の兵は鉄砲を備えています。若い頃、あれだけ鉄砲の重要さを理解していた信長が、いまわの際に鉄砲を持たず、相手の銃弾を受ける位置にいたのも皮肉といえば皮肉です。
このこと、さらに今後は南蛮に出たいと理想を語る辺りは、あの坂本龍馬を思わせるものがあります。龍馬も北辰一刀流の使い手でありながら刺客の剣に倒れ、また明治維新後は日本を離れたいとも語っていたと言われています。どちらも誰が本当の暗殺者であるかわからない点も、またそっくりと言えるでしょう。
ところでこの信長の訃報は葛籠重蔵と羽柴秀吉の知るところとなり、打倒信長を掲げて来た重蔵は脱力感を味わいます。一方秀吉は大いに泣きわめきますが、あんなに大きな声を出していたら気づかれないのでしょうか。そしてやはり官兵衛が、天下を取る千載一遇の好機と言っており、こちらは新たな目的を見出したわけで、重蔵とは対照的です。無論この後毛利と和睦し、姫路に戻り、そして光秀とことをかまえた上での話ではありますが。
光秀は天下人の夢を追いますが、細川藤孝に裏切られます。またこれには出て来ませんが、筒井順慶も彼に味方しませんでした。最近では室町幕府を再興しようとしたと言われていますが、いずれにしてもそう簡単に行くものなのかどうか疑問です。少なくともこの作品では、天王山の戦いの後、落ち延びる光秀の脳裏に浮かんだ
下剋上の終焉
ゆえに信長を討った自分を皆が見放している
の2点が、それを不可能にしたと言えそうです。あるいは、この時点で既にある意味のバーンアウト症候群にあり、本能寺と共に光秀も燃え尽きたと考えられなくもありません。
またこの時妻のお槇は、信長は悪業と言われつつも己を信じたと、夫を励ましますが、この時の彼女はそうとしか言えなかったでしょう。
ところでこの大河、40年以上前のものですから、やむを得ないとは思いますが、カツラやヒゲの接着面がはっきり見えてしまうのがちょっと残念です。もう少し修正できなかったのかなと思います。