昨年になりますが、『いだてん』の視聴率関係で、鈴木祐司氏のYahoo!の記事をご紹介したことがあります。
鈴木祐司氏の『いだてん』評
鈴木氏は『麒麟がくる』に関しても、同様の意見を述べています。ただし今回はYahoo!記事ではなく、『FRIDAY』への投稿となっています。正直な話ためらわれたのですが、一応納得できる部分もあるので、URLのみを置いておきます。
『麒麟がくる』は失速する?~戦国大河なのに苦戦する5つの理由
https://friday.kodansha.co.jp/article/96540
(データ提供:スイッチ・メディア・ラボ)
この中で鈴木氏は、
序盤の急落
女性に不人気
単身で高齢の女性には特に不人気
内容が大衆向けでない
肩に力が入り過ぎ
といった点を、不安要因として指摘しています。5つの理由とあるにもかかわらず、その実はっきりした要因は3つまでしかないのですが、それはさておき。
まず序盤の急落ですが、これはうなずけます。戦国物にしては珍しいほど、最初の5回で視聴率が右肩下がりになっており、第5回では13.2パーセントとなっています。無論今後再浮上することもあるでしょうが、全体的には戦国物の割に、そこまで数字が高くない印象を与えます。なお第4回は裏にフィギュアが来たせいもありますが、NHKの木田総局長が、これに関して不安材料は持ち合わせていないというのは、あまりにも他人事として捉えすぎてやしないかと思われます。なぜ3割近くが離脱したのかを真剣に考えるべきでしょう。
そして女性に不人気という点。若い女性に人気がないのみならず、高齢の女性にも人気がないという点が指摘されています。特に若い女性の場合、最初は映像がカラフルであるとか、光秀を演じる長谷川博己さんに好感が持てたとあるものの、やはりそれだけでは駄目で、話の展開が面白くないと観続けないという指摘もあります。また男性の間では、年齢や単身か否かにかかわらず、さほどの変化はないにもかかわらず、高齢(65歳以上)の女性、単身の女性では、その下がり方が顕著になっています。これに関して鈴木氏はこのようにも指摘しています。
「ところが『利家とまつ』(02年・唐沢寿明、松嶋菜々子)以来の女の子大河を好んで来た高齢女性には、露骨な上昇志向と野蛮さは支持できないのかも知れない。大多数を占める高齢層の中の半分に離反されるとなると、『麒麟がくる』の先行きは厳しいかも知れない。」
「戦国時代がテッパンといっても、実は近年の大河は女性に見られる工夫が随所に散りばめられていた。『利家とまつ』以外に、『功名が辻』『江』『おんな城主直虎』は女性が主人公だ。『天地人』は「利」が幅を利かせる戦国時代にあって、「愛」や「義」を重んじた直江兼続(妻夫木聡)が主人公だった。女性に共感される物語だったのである」
無論鈴木氏はメディアアナリストである以上、一視聴者とはまた異なった見方をしているわけですし、序盤の急落や「肩に力が入り過ぎ」という点では、うなずけるものもあります。『いだてん』とはまた違う意味で、感情移入しにくい部分もあり、これが視聴者離脱に関わってもいるでしょう。ただ女性視聴者の離脱とそれまでの大河の描かれ方に関しては、多少の異論があります。
まず鈴木氏がリストアップしている戦国大河には、2つの軍師物である『風林火山』、そして『軍師官兵衛』が入っていません。これらは鈴木氏の表現を借りれば「男の子大河」であり、上昇志向や野蛮さもありましたが、前者は由布姫、後者は光という女性キャラが大きな役割を果たしています。また女性に観られる大河ではあるものの、『おんな城主 直虎』の視聴率は、現時点で戦国大河最下位となっていますし、『江~姫たちの戦国~』も終盤に向けて視聴率が落ちています。少なくとも視聴者の獲得には成功していない部分も見受けられます。
それと『真田丸』のきりに関しては、このようにあります。
「そして特筆すべきは『真田丸』。家臣のきり(長澤まさみ)が、重要な役回りをみせる。物語の大きな展開は、戦国らしい「利」の戦いだが、きりの存在がクスッと笑え、感情が動くセリフを編み出していた。理屈が先行しがちな男の会話を、上手く中和していたのである。女性視聴者も大いに引き込んだ所以である」
ということですが、家臣でなく家臣の娘の彼女が「普通の女性キャラでない」のもまた事実です。特に三谷幸喜氏の脚本ということもあり、登場人物がどこか一癖あるのが、『真田丸』の特徴でもあり面白さでもあったわけで、これはきりが女性であるからと言うより、それぞれの個性が一般的な戦国とは異なる雰囲気を生み出していたと取るべきかもしれません。無論きり以外にも、信幸・信繁兄弟の祖母のとり、母の薫、そして姉の松などなどの女性キャラの存在も、雰囲気作りに大きく貢献してはいました。
さらに『麒麟がくる』の場合、現時点でそこまで「合戦・調略・権謀術数などのシーンが華々しく展開」しているようにも見えません。むしろ『風林火山』の方がそれに近いでしょう。先日ちょっと書きましたが、どうも光秀自身が前半生の情報が少ないせいで、創作がメインとなり、女性主人公の大河のようになりがちで、その点に違和感を覚える人が結構いるのではないかと思われます。
また若い女性の場合、「最初は映像がカラフルであるとか、光秀を演じる長谷川博己さんに好感が持てた」というのもあるかもしれません。ただあの映像はカラフルというよりは、やはりどこか「ケバい」印象がありますし、ストーリーの展開もさることながら、駒の現代語が気になる、オリキャラが多いなどといった点も離脱要因となっている可能性もあります。
それから「肩に力が入り過ぎ」は確かにうなずけますが、これはむしろ女性主人公的光秀が、いきなり権謀術数の中に取り込まれるのが、いささかそぐわないからとも思われます。そしてこの光秀は、現時点ではまだそれらしき試練にもあまり遭ってはいません。かつてDVDで『国盗り物語』の総集編を観たことがありますが、この時の近藤正臣さんの光秀の方が、荒波にもまれながら成長して行く光秀といった雰囲気があります。
むしろ『麒麟がくる』が軍師物のように、利や権謀術数が冒頭からこれでもかと出て来る大河であれば、また違った印象を与えたでしょう。また年収400万円未満世帯と、年収1000万円以上の世帯で比較した限り、後者の方が『真田丸』も『麒麟がくる』もコンスタントに観ており、逆に前者には『麒麟がくる』は受けないとあります。やはり感情移入しやすいか否かという側面はあるようです。ただニュース好きの層には受け、バラエティ好きの層には受けないとありますが、今時地上波に関していえば、ニュースもバラエティもあまり変わらないようにも思うのですが…。
それはさておき、『麒麟がくる』の離脱要因としては、今までの主だった大河、特に同じ男性主人公の『真田丸』などと比較しても、女性や低所得層に受けないこと、肩に力が入り過ぎで、リラックスして観られないという点が多分にあるようです。実はこの肩に力が入り過ぎというのは、これも先日書いた
『麒麟がくる』雑考3とどこか通じるものがあります。
この中では、池端氏の言葉が時に抽象的であり、理想はわかるが大局的なものが見えにくいこと、史実の先入観抜きという主張について書いた上で、それとは違う視点として、『真田丸』執筆時の三谷氏のコメントを紹介しています。この時の三谷氏の、「つまりは目線を下げるということ。大河ドラマは『ドラマ』なんです。歴史の再現ではない」と池端氏の言葉を比べると、どちらが受け入れられやすいかというのが、見えて来るように感じられます。