遅くなりましたが、『軍師官兵衛』第50回にして最終回「乱世ここに終わる」。如水は九州一円の石田方の城を落とし、天下を狙わんとしていました。同じ頃、関ヶ原で徳川家康の軍と石田三成の軍が衝突します。この時石田方は小早川秀秋や吉川広家が既に調略されており、しかもなかなか動こうとしない小早川の陣に、家康から大砲が撃ち込まれます。この時黒田軍は奮戦して石田方を攻め、一方九州では如水が快進撃を続け、本来石田方であった鍋島直茂が援軍を申し出ます。しかしこの関ヶ原の戦いは一日で幕を閉じ、三成、小西行長、安国寺恵瓊は捕らえられます。後にこの3名は斬首されますが、三成はその前に、自分に言葉をかけた長政に、如水殿なら自分の気持ちがわかると伝えます。そして家康は、この斬首のことを茶々に伝え、彼らを庇った者も同罪と睨みをきかせます。九州で関ヶ原の知らせを受け取った如水は、万事休すの思いで中津へ戻ります。
その後如水は上洛し、家康にそれぞれ会います。家康に会った如水は、九州で天下を狙ったことを率直に告げ、自分は戦で負けたことはないが、此度は内府様に負けたと頭を下げます。そんな如水に家康は、長政は父を超えたこと、そして太平の世を作ることを伝えるのでした。その長政は関ヶ原での功績により、筑前52万石を与えられることになります。そして父に、家康が自分の右手を取ってほめてくれたことを話すものの、如水はこう言います。
「お前の左手は何をしていた」
その後筑前に転封となった長政は城下を福岡と名付け、慶長7(1602)年11月には待望の男児が生まれます。その子は如水の幼名万吉にあやかって万徳と名付けられます。家康の体制は盤石となり、おねは、茶々が大坂城にいる限り目を覚ますことはあるまい、大事なのは城でなくて人だと言います。
如水はめっきり老け込むようになりました。慶長9(1604)年正月、余命が短いことを悟った如水は長政と栗山善助を呼び寄せ、自分の赤合子の兜を善助に与えます。そして長政には、今後の身の処し方を教えます。この年3月20日、如水は59歳で生涯を閉じました。悔いはないと如水はいまわの際に言い、光は、自分は天下一の果報者であると夫に言います。しかしその11年後、乱世の最後の戦というべき大坂夏の陣が起こり、これには長政も従軍します。そして、仲たがいをして出奔した後藤又兵衛が、道明寺の戦いで戦死したことを知ってひどく後悔します。大坂城は炎上し、その様子をおねと家康が見つめていました。家康は如水と約束した太平の世が来たことを悟ります。そして光は、藤の花を見ながら、その先に如水がいるのを見つけ、こう語り掛けます。
「殿、よう生き抜かれましたなあ」
その場には、如水が生涯愛用した杖が残されていました。
本望を遂げることができた者と、できなかった者の対立が浮き彫りになります。前者は徳川家康、そして黒田長政でしょう。後者は石田三成と茶々ですが、無論如水もその一人でした。前にも書いていますが、関ヶ原の戦いが一日で終わることを、如水は読めていなかったのです。というより、この時代これだけの規模の戦いであれば、それなりの日にちを要すると考える方が正しかったといえるでしょう。あと一歩で中国地方に攻め込めたかも知れなかったのに、それが覆されたという如水の気持ちは察するに余りあります。しかもこの戦いを一日で終わらせたのは、子の長政の尽力によるものであったわけです。父と子の明暗が分かれた感もあります。例の「お前の左手は何をしていた」は伝説とされていますが、子の功績を喜ぶというより、自らが天下人になれなかった悔しさの方が先立ったとも取れます。
石田三成は、天下を争えたことが大事だと家康に語った設定になっています。立場こそ違えど、この人物もまた、かなりの劣勢ながら天下の覇権を争ったのは事実でした。そして茶々です。この人物は自分の右腕ともいうべき三成がいなくなり、さらにその後大坂夏の陣では、家康に攻め込まれて自刃します。かつて小谷で父が亡くなり、北庄では母を失い、そしてこの大坂では自らが死を選ぶという人生でした。この大河では大坂夏の陣は、言っては何ですが「おまけ」的な雰囲気があります。主に長政と又兵衛、そして家康を描くためのものといえそうです。ただ長政と又兵衛の対立の要因が描かれなかったのが残念です。その代わりというか、如水の晩年にかなりの尺を割いています。旧暦の5月なので藤はもう終わっているかと思いますが、家紋なので敢えて持って来たのでしょうか。おねが大坂城炎上を見ているのは、『葵 徳川三代』を連想します。
おねが如水に「大事なのは城でなく人」と言うシーン、かの「人は城なり」の言葉を思わせます。なぜ大坂の陣が起こるに至ったかを描くには、様々な方法があるでしょう。この場合は茶々が家康を敵視していたからという、従来通りの描き方になっています。そしてこの時、加藤清正と福島正則もまた、家康に欺かれたのを知るという展開です。これもよく大河では描かれていますが、この2人は特に三成憎しの気持ちから家康に与したわけです。しかし勝てば勝ったで家康の天下となったというのに、少なからず慌てたともいえます。これを見る限り、豊臣家を潰したのはほかならぬ豊臣の、それも子飼いの大名であったともいえるでしょう。秀吉の悲劇は子宝になかなか恵まれなかったこともさることながら、家中をまとめ切れなかった、譜代家臣の不在にも原因があります。如水が長政に「家臣の言うことを聞け」と諭すのは、そのことも大いに関係しているでしょう。